〈朝鮮通信使来聘400年−2−〉 江戸日本、最大の歓迎体制 |
100万人が人垣を作って見物 1607年、家康の要請を受け入れて第1次通信使が派遣された。主な任務は国書を交わすことで、両国の信を通い合わせることであった。なお1次から3次までは連行された朝鮮人を連れ帰ることに努力が注がれた。 徳川政権はすべての藩に対し連行者を帰すように命じたが、才能ある学者や技術のある陶磁工たちは、各藩で彼らを隠して帰そうとしなかった。 帰りたくても、年月が過ぎ、結婚して子どものできた人々は泣く泣く帰るのをあきらめざるをえなかった。 徳川政権は通信使を国をあげてもてなした。
何といっても、朝鮮は唯一の外交関係のある国である。朝鮮を通じて国際秩序の安定をはかり、進んだ文物の受け入れを行うために通信使の接待は国の最大行事であった。 通信使一行約500人を対馬藩の800人が江戸まで送り迎えをし、通過する沿道の30余藩の大名が人馬と宿舎を提供し、歓迎の宴会を催した。その行列は約2000人にもなる。その行列を一目見ようと100万の人々が沿道に人垣を作った。日本側の接待費は百万両にもなる。 通信使は1607年の第1回から1811年の第12回まで日本に来たが、日本側の外交手続きと準備は大変なものであった。 その外交手続きはまず、徳川将軍が亡くなるとそれを知らせる使者を朝鮮に送る(告訃参判使)。次に新将の就位を知らせる(告慶参判使)。つづいて通信使を招くための使者が行く(修聘参判使)。帰りには送って行く(送聘参判使)。 朝鮮国王の死去、就位にも参判使を送る。 参判使とは日本外交を担当する礼 の参判(次官)に使いをするからである(大臣は判書)。 朝鮮から通信使の派遣が知らされると日本側は歓迎体制を整える。 幕府は老中を責任者とする歓迎委員会(御用掛り、ご馳走掛り)を任命する。 若年寄、寺社奉行、大目付、勘定奉行、目付、江戸町奉行等々に大阪城代、京都所司代等々を加える。まさに国の総力をあげての歓迎体制である。 各藩に食事、宿舎、人馬の準備を命じる。 人足の数は7800余人である。 大きな河川には船橋をかける。船橋は将軍上洛と通信使のときだけかけられた。 揖斐川、長良川、境川、木曽川、天龍川、富士川、酒匂川、相模川の8カ所である。 幕府は通信使来聘にあたって全国に御触を出す。指示を通じて接待、沿道歓迎のマナー、火の用心、道筋と町の美化等々である。 対馬藩は幕府の命を受けて、通信使の江戸までの客館、休息所の見分をする。 各藩は通信使饗応に関して対馬藩の助言を求める。対馬藩の面目躍如たるものがある。 徳川幕府の通信使大歓迎の理由は、政権の確立と強化のため国際的認知が必要であったからである。 「朝鮮から江戸まで使節が来るというのは、支配の正統性を国内にアピールするまたとないチャンスであった」(山本博文・東京大学資料編纂所教授)、「徳川幕府の国際的な地位を確認する政治的な意図などがあった」(歴史小説家の杉洋子さん) 「徳川氏にとって朝鮮王朝との友好保持が東アジア社会との連帯の必要条件であった」(高正晴子・梅花短大助教授)との新しい学説も発表されている。(金宗鎭、社協東海支部会長) [朝鮮新報 2007.2.23] |