〈人物で見る朝鮮科学史−24〉 新羅の科学文化(番外編) |
慶州最高の教育の場
2002年11月、筆者は全北大・金根培教授の案内で新羅の古都慶州を訪れたことがある。釜山大で開催された韓国科学史学会で「科学史における近世」という題で招待講演を行った翌日のことである。市内をめぐる観光バスに乗り、瞻星台をはじめ芬皇寺、慶州博物館、雁鴨池、天馬塚をはじめ23基の古墳からなる大陵苑、鮑石亭址、金庚信将軍墓、多宝塔・釈迦塔がある仏国寺など、念願の遺跡、遺物を見学することができた。その時の感想は雑誌「イオ」に書いたことがあるので、今回はそこでは紹介できなかった新羅歴史科学館について書いてみたい。 慶州民俗工芸村の奥にある新羅歴史科学館は、その名の通り新羅の科学文化に関する遺跡、遺物を再現した博物館である。その代表的な展示物は石窟庵の模型で、5分の1の縮尺で本尊と全体を再現し、さらに10分の1の縮尺で内部および外部構造を説明するための7基の模型を展示している。本欄でも言及したように現在、石窟庵はその空調設備のためガラスで覆われ間近ではみることができない。そんななかで、この科学館の精巧な模型と解説は実に貴重といえる。筆者も時間の関係上、石窟庵までは見学できなかったが、この博物館の展示によってある程度は満足することができた。 科学館には瞻星台の模型も展示されているが、その上の天井にはプラネタリウムのように当時の天空の星が散りばめられ天文台としての瞻星台を強く印象付けている。また、エミレ鐘の鋳造過程を説明する展示や、当時の都市の様子を再現した「王京図」のパノラマも興味深い。さらに、ここには新羅だけでなく「測雨器」をはじめとする朝鮮における優れた科学伝統を示す展示物も数多くあり、実によく配慮された博物館といえる。 このように立派な新羅歴史科学館であるが、公共の施設ではなく慶州出身の実業家・昔宇一氏による私設博物館である。石材商を営む氏は、得た利益を故郷に還元したいと考えた。そこで、とくにその保存が問題となった石窟庵を再現することを思いたち、それを中心とした科学館を設立したのである。この科学館の入り口に第2石窟庵とあるのもそのような理由によるのだろう。兪弘濬「私の文化遺産踏査記」では、この科学館を「真の慶州人の汗と意志で建てられた慶州最高の教育の場」と書いているが、その高い評価も十分に頷ける。 一般に古い品々を総じて骨董品と呼ぶが、それは単に古いから価値があるというものではない。人々がそれを大切に扱い保存されることによって時代を経て現代に伝わった、その事実がより重要なのである。文化遺産についても同様である。(任正爀、朝鮮大学校理工学部教授、科協中央研究部長) [朝鮮新報 2007.2.23] |