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〈生涯現役〉 東京・東上野コリアンタウンの生き字引−金徳順さん

「権利闘争の時代、毎週がデモだった」

元気で働き者の金さん

 済州島生まれの金徳順さんは昨年末、82歳になったばかり。幼い頃から働き詰めの生活をしていた人だけが持つ活気とエネルギーが、小柄な体に満ち満ちている。いまも東京・上野の通称・東上野コリアンタウン(旧=「国際親善マーケット」)のすぐ近くの自宅で、焼肉店を営む長男夫婦をサポートしながら、なじみの客らと談笑する。

 故郷は済州市禾北里。植民地時代に生を受け苦労の連続だったが、柔和な表情にその影は微塵もない。14歳で大阪のハンドバッグ工場に働きに来て、2年後に、父が徴用に取られた南洋のトラック諸島に母らとともに向かった。故郷の人々は金さんの家を「南洋の家」と呼んでいた。大阪から横須賀を経て、小笠原諸島からサイパン、トラック島ヘ。約一カ月の船旅だったと言う。太平洋戦争開始の半年前のこと。島で、父は現地の人たちを雇って、椰子の実から油を絞り、日本に送る仕事に従事していた。また、そこで異母姉妹が生まれて、みんなで仲良く暮らしていた。その姉妹と子孫たちは今、日本やサイパンに住んでいるが、血縁の深い絆で結ばれているという。

 44年。いよいよ日本の敗色は強まっていく慌しいなか、11歳年上の夫と結婚。米軍と日本軍との激戦を潜り抜け、一家は命からがら故郷に引き揚げ、そこで解放を迎えた。そして、49年、再び済州島を発ち、東京・上野へ。それから58年の時が経った。

「テドン」出版宴で

祖国訪問の楽しい日々(1990年代の初め頃、左端が金さん)

 1月18日、上野・東天紅で催された総連東京・台東支部同胞沿革史「テドン」の出版を祝う宴で、金さんの周りはあいさつに訪れる同胞らの姿でひしめいていた。まさしく「台東の生き字引」のような存在なのである。解放後、上野近辺には同胞たちがバラック小屋を建て、生活を始めていた。47年には、現在の御徒町分会地域の土地を坪当たり400円で購入し、53の店舗兼住宅が軒を連ねる「国際親善マーケット」が形成され、今に至る伝統あるコリアンタウンの歴史が始まった。

 その草創期の頃の話は、まるで活劇のようにおもしろい。「タバコ、ドブロク…、闇で作って、売れるものは何でもやった。パチンコの景品交換をやって、取り調べを受けたり、イタチゴッコのような…。要領のいい私は捕まらず、ちょっとの間、代わりをやってくれただけの夫が捕まったこともあったね」。

 暮らしが落ち着くと、洋服の「まとめ」の仕事に精を出すようになった。ズボン一本につき45円。一日10本をこなし、コツコツ真面目に働き続け、今の家を140万円で買った。そして、商売を充実させようと、ミシンを10台買って、20人も雇った。夫が裁断したものを一貫した流れ作業で洋服を作って、日本橋の業者に納めた。妻は仕事全般のプロデュース、職人たちの賄い、2男3女の子育てまでこまねずみのように働いた。それを糧に、喫茶店や焼肉店を始めた。

女盟台東支部の温泉旅行。記念写真はチョゴリで(74年)

 その間、61年から18年間、女性同盟御徒町分会長も務めた。成人学校に多くの女性たちを誘い、朝鮮語の読み書きができるように勧めた。また、この頃は、在日同胞の権利擁護運動の全盛期。祖国往来の実現を求める闘い、「外国人学校法案」と「出入国管理法案」に反対するデモ、朝鮮大学校の認可獲得めざす要請行動…。金さんはその頃を振り返る。「政治の中枢・永田町、霞ヶ関を毎日練り歩いたよ。首相官邸、外務省、法務省、文部省、厚生省、日本赤十字社…。そして、日比谷公会堂へも。毎週デモしたから、いまでもその辺りは目をつむっても歩ける」。朝、家で洗濯機を回していると、女性同盟の支部委員長が来る。「デモに行く人手が足りないので、一緒に行って」と。「もう否応もない。回っている洗濯機をそのままにしてその場からデモの現場に急行した」。

 分会のオモニたちを連れて、箱根の経済学院、埼玉・大宮の関東学院で開かれた10日間の学習会に参加した記憶も鮮明だ。残された子どもたちがどうやってご飯を食べて、学校に行ったのか、慮る暇もない。

 「朝鮮新報を20年間、毎日欠かさず、各家に配達したことも懐かしい。いまでも、新報は私の人生の友。隅から隅まで読むのが日課だ」と。

シャッターの音

 朝7時から約1時間半、店の掃除をして、せっせと体を動かし、午後3時には店に入り、仕込みの手伝い。店の終了の11時まで息子夫婦と過ごす。息子の総連御徒町分会長・李成旻支部副委員長(非専従)は、もっと気楽に過ごしてほしいと願っているが、「店のシャッターが下りないと安心して眠れない」オモニの習性を変えることはできないと苦笑する。細腕一つで同胞に尽くし、家族を守り続けた深い愛の物語は、これからも台東の宝として語り継がれるだろう。(朴日粉記者)

[朝鮮新報 2007.2.24]