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〈人物で見る朝鮮科学史−25〉 海東盛国・渤海(上)

牙をむきだした力強い石獅子

第1宮殿址基檀石獅子彫刻

 高句麗は長い間の外来侵略者との戦いで疲弊し、ついには唐と新羅の連合軍によって滅びたが、その領土を回復すべく698年大祚栄によって建国されたのが渤海である。しばしば、新羅が高句麗と百済を滅ぼしたあと、唐の干渉を退けたといわれるが、新羅の貴族たちにはその気がなく、先頭に立ったのは両国の遺民たちである。その後、渤海は大同江以北から黒龍江に至るまで版図を広げ、一時は「海東盛国」と称されるほどに栄えたが、926年わずか230年ほどでその幕を閉じる。一説には、10世紀初の白頭山の大噴火によって大打撃を受けたためともいわれている。渤海に関する文献資料は少なく、その詳細は明らかではないが、現在、発掘調査が盛んに行われている。ここではそれらの遺物を通じて、渤海の科学文化の一端を垣間見ることにしたい。

 渤海の遺物のなかでもっとも有名なのは、当時の首都であった上京龍泉府の第二寺址に残る石燈である。石燈は基台石、竿石、火袋石、相輪の4つの部分からなるが、それらは数学的比例関係を用いて構成されているだけでなく、基台石と火袋石は8角形、竿石はふくらみを持った円柱で上下には蓮の葉が彫刻されている。さらに、その高さは6メートルにもなるが、広開土王陵碑の高さが6.34メートルであることを想起するとき、この石燈のスケールの大きさを実感することができる。

華文方塼の破片

 780年頃の貞恵公主墓から出土した石獅子、墓碑も興味深い遺物である。石獅子の大きさは約50センチであるが、牙をむきだした力強い造形が特徴的である。石獅子といえば、平壌の朝鮮中央歴史博物館に保管されている高句麗・永明寺の石獅子が有名であるが、それをより洗練させた造形となっている。日本の神社の社頭や社殿の前に置かれた一対の獅子に似た獣の像を狛犬と呼ぶが、それは高麗犬を意味する。この2つの石獅子は、まさに狛犬の原型といえるものである。また、725字が刻まれた墓碑は貴重な史料であると同時に、碑自体が一つの彫刻品となっている。

 渤海の遺物のなかで、もっとも数が多いのは陶器片と瓦類である。陶器は緑、黄、褐色、赤、紫色、灰青色などの釉薬が施されているのが特徴的であるが、なかには有名な「唐三彩」に似たものもある。技術的にも831年に唐に輸出した紫磁盆は「大きさが五斗入りくらいで、表裏ともに透き通った純粋な紫磁盆で、厚さは一寸くらいであるが、毛のように軽かった」と表現されるほどに水準が高かった。また、鳥の翼と前に突き出た嘴のような造形が特徴的な鴟尾(大棟の両端に置かれる瓦)と、怪異な造形の鬼瓦も一度見たら忘れられない強烈な印象を残す遺物である。(任正爀、朝鮮大学校理工学部教授、科協中央研究部長)

[朝鮮新報 2007.3.2]