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〈朝鮮近代史の中の苦闘する女性たち−18〉 舞踊家 崔承喜(下)

絶賛を浴びて

 1934年5月22日、崔承喜の第1回新作舞踊発表会の当日、東京は数十年ぶりの台風で暴風雨に見舞われた。それでも会場となった日本青年会館は観客で満ちあふれた。そして魅力あふれる彼女の踊りに、観客は息を殺し、そして割れるような拍手を送った。

 この日招待された作家の川端康成、杉山平助、改造社の社長山本貫彦、劇作家の村山知義、評論家の永田龍雄など著名人らは絶賛を惜しまなかった。

 村山知義は、「崔承喜は彼女の肉体的魅力と、長い間の近代舞踊の基本的訓練の上に、古典舞踊を生き返らせた。これこそ優秀な芸術家でなくては表現できない特典であり、遺産を批判的に摂取したといえよう。われわれは彼女を通して昔朝鮮半島が隆盛していた時代豊かであった、しかしその後、消滅しかけて生き返った、朝鮮の芸術の姿にようやく接することができた。われわれは、日本的なものを生んだ産みの母、その父母の息遣を感じることができた」と書いた。

 再起公演を成功させた彼女の人気はうなぎ昇りに上がり、差別と蔑視の世界で暮らしていた在日同胞の希望の星として、熱い支持を受けた。

 彼女は舞踊会にとどまらず、舞踊映画「半島の舞姫」に主演、コマーシャルやファッションモデルとしても登場した。

世界を舞台に

 こうした中、彼女は自分の創作した朝鮮舞踊を世界に紹介してみたいという野心に燃える。そして1937年、日中戦争が勃発する厳しい情勢の中、サンフランシスコ、38年にはロサンゼルス、ニューヨークで、39年からパリ、ベルギー、オランダ、ドイツ、オーストリアなどヨーロッパ各地を巡演、ベルギー・ブリュッセルで開かれた第2回国際舞踊コンクールでは審査員に選ばれた。それから再び米国に移り全米で公演、さらにブラジル、ウルグアイ、アルゼンチン、ペルー、チリ、コロンビア、メキシコなど中南米にも足を延ばし「コリアン・ダンサー崔承喜」として3年間で150余回公演するという大記録を残した。

 彼女の活躍は、国を奪われた朝鮮民族に誇りと希望を与えた。朝鮮同胞は、彼女の舞う朝鮮舞踊から民族の魂、朝鮮民族は生きているという熱い思いを強く感じ取ったのである。

 1941年、日本に戻った彼女は、東京の帝国劇場で17日間の連続公演を成し遂げるなど、舞踊家としての真価を余すところなく発揮する。

 しかし、すべてが順風満帆とはいかなかった。彼女の舞踊は過度の民族意識を呼び起こすという理由から、主要都市での公演が中断された。

 そしてついには1942年から朝鮮、中国などの日本軍の慰問公演に動員され、公演の売り上げを献金せざるをえなくなるなど、日本軍部への協力を強制された。

国立舞踊研究所の設立

 中国で解放を迎えた彼女は、1946年6月いったんソウルに戻るが、7月には平壌から迎えに来た夫の安漠と共に北に入った。

 朝鮮での彼女は金日成主席の配慮で崔承喜舞踊研究所(現在は冷麺専門店の玉流館となっている)を設立し、中国、ベトナム、モンゴルなど外国から来た舞踊家を含め後進の育成にあたり、長女の安聖喜をはじめ著名な舞踊家を育てた。

 朝鮮戦争の最中の1950〜52年まで一家は国の配慮で北京に避難、周恩来首相や京劇の梅蘭芳の支援を受けて戯劇学院に崔承喜舞踊班を設け、後進の育成とともに京劇の改革にも力を注いだ。

 1952年7月、彼女は平壌に戻った。この年国立崔承喜舞踊研究所が創設され、附属学校として崔承喜舞踊学校(現在の平壌音楽舞踊学園の前身)が設けられ彼女は舞踊研究所の総長、朝鮮舞踊家同盟委員長を務めた。踊りの指導において妥協を知らなかった彼女の、その口癖は「朝鮮の粋、民族的特色」だったという。

 そして1955年には、芸術家として最高の栄誉である人民俳優称号を受けた。

 1958年、彼女はそれまで研究してきた舞踊理論をまとめた著書「朝鮮民族舞踊基本」(1.2巻)を出版した。

 その後文化宣伝部の幹部であった安漠の「失脚」が噂される中、作風問題で批判され一時第一線から退いたこともあったが、1960年代には「朝鮮民族舞踊基本」(3巻、児童舞踊論)を出版、舞踊に関する論文も続けて執筆している。

 1967年以後消息不明とされていたが、1994年に出版された「金日成回顧録」第5巻で主席は「崔承喜は朝鮮の民族舞踊の現代化に成功した。彼女は…民族的情緒が濃く優雅な踊りのリズムを一つひとつ探し出し、現代朝鮮民族舞踊発展の基礎づくりに寄与した」と高く評価した。

 そして2003年2月、彼女の遺骨は平壌の愛国烈士陵に安置された。死亡した日は1969年8月8日と記されている。

 最近、朝鮮の朝鮮民族音楽舞踊研究所舞踊研究室では、崔承喜舞踊研究所が1946年、金日成主席を招いて披露した舞踊など約40余作品を発堀(朝鮮新報06年3月13日)した。この中には崔承喜の踊った「散調」「リズムと舞」も含まれているという。(呉香淑、朝鮮大学校文学歴史学部教授=終わり)

[朝鮮新報 2007.3.2]