〈朝鮮通信使来聘400年−3−〉 家康、秀忠、家光の国書 |
永遠に隣国との和好を望む 通信使の使命は、国王の国書を互いに交し、国王と国王の信が通い合うようにすることにある。 江戸城における国書の奉呈こそ、通信使行事の中心である。 徳川将軍は全国の大名をひかえて通信使を迎える。通信使は国書を老中を通して将軍に奉呈する。国書が読まれ、将軍から通信使に声がかけられ、祝杯が交される。 朝鮮国王から徳川将軍への礼單(贈り物)が披露され、続いて歓迎宴が開かれる。 歓迎宴には将軍の代わりに御三家が出席して通信使をもてなす。通信使が東側(上座)に座り御三家が西側に座る。 朝鮮国王からの礼單は最高の山参であるが、将軍家の官中宴も七五三膳の最高のもてなしである。 任務を終えて帰る通信使に日本国の国書が渡される。 その国書には徳川将軍の通信の喜びがあふれている。 秀忠は朝鮮国王への第1次国書で次のように述べている。 「…謹んで拝読し、広げたりまいたりして手から離すことなく、喜びにたえない次第です。…霊区の珍貴なる物産を拝受して、懇情はますますねんごろなものあり、感謝と恥ずかしさが一層加わるものがあります」(日本国源秀忠) 第2次国書では「珍重なる書簡は香をたいて拝読し、巻いたり広げたりすること幾度となくいたしました。…実に久しい契りに心強いものがあります。ますます旧盟を捨てることなく、永遠に隣国との和好を修めねばなりません」(日本国源秀忠)。 家光の国書は「先烈を継承して隣好の情諠をあつくする意は一層喜ばしく慰めになり、両国が万代に慶事が連綿たることを確約することであり、どうしておろそかにいたしましょうか」(日本国源家光)と、万代の慶事として喜びを語っている。 家康はこれらの国書奉呈に先立ち、秀忠に「接待の際に往年の無礼な規例に従うことなく、ただ誠意をもって互いに接し、回答の書契も、またすべからく温順を旨とすべきである」(「海槎録」慶七松1607年)と伝えている。 家康が朝鮮通信使にどれだけ気をつかっていたのかを知ることができる。 家康は江戸からの帰路の通信使を接見した際に「両国がすでに和好して、将軍も極めて咸悦しており、…われら父子も生きているかぎり、またどうして他の心を抱くことがありましょうか」と誠心の意を語っている。 徳川政権の朝鮮国との国交に関する基本的な態度と国策を知ることができる。 まさにこの国策によって朝鮮と江戸日本は深い交流を行い、江戸日本の政治、経済、文化に大きな足跡を残すことになる。(金宗鎭、社協東海支部会長) [朝鮮新報 2007.3.9] |