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〈人物で見る朝鮮科学史−26〉 海東盛国・渤海(下)

朝鮮史の正統な位置付け

瓦に刻んだ文字

 渤海の科学技術に関しては不明な点が多いが、日本の記録に貴重な事例がある。それは、859年に来日した烏孝慎という人物が日本に天文暦書「宣明暦」を伝えたというものである。それより約300年前の554年には百済の暦博士・王保孫が日本に渡っており、602年にも百済の僧・観勒が暦書を日本に伝えている。この烏孝慎の記録はそれに続くものといえる。「宣明暦」は、その後1684年に幕府天文方である渋川春海が日本独自の「貞亨暦」を作成するまで用いられている。いずれ詳しく述べることになるが、渋川春海の師である岡野井玄貞が朝鮮通信使の一員として来日した朴安期から天文暦書に関する知識を得ており、日本の暦書と朝鮮は実に深い関係があるといえるだろう。

 さて、最後に統一新羅と呼んでいた時代を後期新羅・渤海時代と改められた理由について述べよう。そのためには、渤海史がどのように位置づけられていたのかについて言及しなければならない。現在、中国の学者が渤海を自国の歴史の一部と主張しているが、元々は高麗時代に編纂された「三国史記」が渤海についてごく簡単にしか記述しなかったことが問題の発端である。実際、次の時代の歴史書に記述がないのは、渤海を朝鮮史の一部とする視点が欠けていたといわざるをえないだろう。

金山建物址の軒丸瓦

 それを全面的に批判したのが実学者・柳得恭で、彼は1784年頃に著した「渤海考」で、高句麗、百済が滅んだ後に、南に新羅が北に渤海が存在したのに高麗で渤海史を編さんしなかったので、渤海史が誰の歴史か不明になってしまったとした。その後、柳得恭の主張は丁若縺u我邦彊域考」や韓致ヌ「海東繹史」などに受け継がれ、20世紀初頭のいわゆる愛国啓蒙運動期に申采浩、朴殷植らが渤海を高句麗の後継に位置づけ研究の重要性を説いた。ところが、その後、植民地時代を経てしばらくは渤海は靺鞨人が建国したものとされ、朝鮮で最初の歴史学博士となった朴時亨の「渤海史研究について」(「歴史科学」1963年第1号)によって一応の解決を見た。

 さて、その呼称問題であるが、前述のように新羅が三国を統一したといっても、高句麗を受け継いだ渤海が存在することを考えるとそれは完全な統一とはいえない。また、唐との連合によって高句麗や百済を滅ぼしたことを考えあわせると正統性にも疑問が残る。1960年、金日成総合大学のある学生が、このような問題意識から「三国統一問題を再検討することについて」という論文を提出した。これを契機に歴史学者たちが議論を重ね、現在、朝鮮では後期新羅・渤海時代と呼ぶようになり、朝鮮最初の統一国家を高麗としたというわけである。ところで、当時の学生であるが、それは誰もが知っている人である。(任正爀、朝鮮大学校理工学部教授、科協中央研究部長)

[朝鮮新報 2007.3.9]