〈生涯現役〉 祖国愛と社会貢献果たす経営者−金應錫さん |
時代先取りする鋭い事業感覚
「人間の欲は果てしない。それをいかにコントロールするかが、企業の雌雄を決する」というのが、金さんの事業精神であり、半世紀にわたって家訓に掲げてきたモットーである。 埼玉県を中心にボウリング場、パチンコ、ホテル、賃貸マンションなどを手広く営む。今は、埼玉県商工会会長を経て、顧問。 瀟洒な自宅の応接間の壁には、その幅広い社会貢献と祖国愛に対して送られた金日成首相(当時)からの表彰状(1971年2月26日)や畑和埼玉県知事(当時)はじめ各地方自治体首長からの感謝状などが掲げられている。 日本のバブル経済が崩壊し、同業者らがじん大な被害を被っていたとき、その影響を受けず、事業を拡大してきた理想家肌の経営者としても知られる。 ラジオ修理から
ここに至るまでの茨の道。はるか70年ほど前に遡る。慶尚南道陝川の裕福な農家の4男に生まれた。祖父が面長を務める暮らしに影がさすのは、父の放蕩のせいだった。家の没落によって父が渡日。まもなくオモニと共に、アボジを訪ねて、玄界灘を渡った。14歳。そこから働き詰めの人生がスタートを切った。 37年、日本で最初に根を下ろしたのが、東京・荒川の三河島。昼間は鉄工所で歯を食いしばって働き、夜は電気工学を学ぶために神田の夜学へ。「生きるために必死で働き、学んだ」。 そんな日々を慰めたのが、自分で組み立てたラジオから聞こえた朝鮮語の放送だったという。やがて「ラジオ修理屋」の看板を掲げて、細々と商いの道に踏み出した。20歳。日本列島は戦争一色に染め上げられていたが、時代を見抜く鋭利な感覚は、日本敗戦が遠くないことを予見していた。 車社会に対応
解放からわずか3年、25歳の時には、当時のお金5万円を友人から借りて、栃木県鹿沼で30台規模のパチンコ店をオープンした。しかし、すぐ大型店に追われて、転売。埼玉や群馬県などでその後も出店と転売を繰り返し、規模の拡大化を目指した。しかし、パチンコ不況に遭遇すると、何とかそこからの出口を求めて、青森・八戸に店の拠点を移した。130坪ほどの土地を手に入れ、300台規模の店を開業し、軌道に乗せた。31歳だった。その2年前には、一回り程若い朴末順さんと結婚。家族を得て、不眠不休で働いても、疲れを知らなかった。 「八戸は有数の漁港。しかし、当時は娯楽がなかったので、店を開けると客がドッと押し寄せ、大評判になった」。青森での事業は大きく成長し、その後の経営基盤の礎を築いた。そんな精力的な活動が多くの同胞らの信頼を集め、35歳の若さで総連八戸南部支部建設委員会委員長に就任した。その後、埼玉に移った後も西南支部会館や埼玉朝鮮初中級学校、埼玉朝鮮会館などの改築建設委員長を歴任したが、八戸がその出発点だったとふり返る。 堅実経営心がけ 60年代の後半に入ると、日本経済は高度成長の波に洗われた。まず、沸き立ったのが空前のボウリングブーム。時代を見る眼が鋭敏な金さんがこれを逃すはずはない。「車の普及とともにレジャー産業も郊外型の時代がまもなく到来するだろう」と予見。東京・田無市にボウリングセンターを、そして、71年には埼玉・川越市の3000坪の土地に400台収容の駐車場を持つ本格的なボウリング場をオープンさせた。 しかし、それも束の間、日本経済はオイルショックの直撃を受け、打撃を被った。しかし、どんな時にも冷静沈着な金さんは、積極的に打って出た。パチンコ産業も駅前・繁華街から郊外型に移行すると予測。その先駆けとなる大型店を次々に仕掛け、大成功を勝ち取った。外食産業などの到来の前の、まさに時代を先取りすると話題を呼び、同業者らの視察が相次いだ。 また、バブルの全盛期でも、堅実経営を心がけ、株や土地への投機を厳しくいましめ、この時期にマンションやホテルなどの多角経営の基盤を固めた。穏やかな口調の中にも、妻と二人三脚で事業を興し、守り抜いた誇りがにじみ出る。「青森では店の営業を妨害するヤクザと対峙、命を張って撃退したこともある」。これまで11回も引越ししたが、余りの多忙のために、2人でゆっくり旅行したこともない。ただし趣味のゴルフはいつも一緒。女性同盟主催のゴルフコンペにも支援を惜しまない。 壁には主席との7回の記念写真が大事に飾られている。「厳しい時代だが、祖国や組織なくしては、商売も自らの権利も守ることはできない」と若い人たちにエールを送る。健康器具も自ら考案し、創った。毎日就寝前の1時間、これを使って体を動かす。身も心も柔軟で若々しい84歳。(朴日粉記者) [朝鮮新報 2007.3.10] |