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〈人物で見る朝鮮科学史−27〉 道詵と風水地理

民族性と迷信的なものが混在

高句麗の都として栄えた平壌には風水がいかされている

 物質を、それ以上分割できない粒子から構成されていると考え、それをアトム(原子)と呼んだのは古代ギリシャの哲学者デモクリトスである。その約2000年後、イギリスの化学者ドルトンも元素を構成する粒子を原子と呼んだ。粒子であるから、そこに位置と運動量を付与することができ近代科学としての力学が発展した。

 これに対して、東洋では物質の根元を捉えどころのない「気」であると考え、思弁的な自然現象の説明に終始した。その典型が気を陰と陽に分け、さらに木、火、土、金、水の性質を持って森羅万象をなすとした陰陽五行説である。それは西洋近代科学が導入されるまで自然に関する哲学として機能したが、この気による自然理解は現代でもしばしば話題となる。風水である。

 風水の要諦は気の流れを見極めることにあるが、その気は地中にも流れ「気脈」と呼ばれ、それが集まる場所が吉地となる。風水地理といわれる所以であるが、朝鮮歴代の都の位置やその建物の配置が風水によって定められたことは周知の事実である。

 さて、風水の起源は古代中国に遡るが、朝鮮でそれを体系づけたのは次のような伝説で知られる道詵である。

風水で建立されたソウル景福宮 [写真=聯合ニュース]

 「新羅末期、統一は崩れ、各地に文人勢力が跋扈していた。ある日、開城にいた王建の父のもとに旅の僧が訪れ、その地が風水の大吉地であり、三韓を統一する王の誕生の近いことを告げる。この旅の僧こそが、後世、朝鮮風水の祖とされた道詵だった」(野崎充彦「朝鮮の物語」、大修館)

 その後、道詵は高麗を建国した王建に仕えるが、王建が死ぬ間際に残したといわれる「太祖十訓要」に、その強い影響をみることができる。

 例えば、諸寺院は道詵が山水の順逆を占って開いたものなのでみだりに寺院を建立してはならないとした第2条や、全羅道地方の地勢は背逆なので、その出身者を朝廷で重用してはならないとする第8条がそれである。とくに、後者は全羅道に対する地域差別を生んだ根拠となったといわれるものである。

 現在も風水を信じる人は多いが、例えば部屋の家具の配置を風水で決めるというのは、換気がよくなるという経験則から妥当性がなくもない。しかし、「運気」を取り入れて幸運を得るとなると、信仰あるいは迷信といわざるをえないだろう。

 科学史は、古代、中世、近代、そして現代へと段階的に推移してきたが、中世の特徴は地域性、民族性を色濃く帯びるとともに、そこに迷信的なものが混在していることである。

 高麗の科学技術は、まさにこのような特徴をもって発展するが、その具体的な内容については次回以降に見ることにしたい。(任正爀、朝鮮大学校理工学部教授、科協中央研究部長)

[朝鮮新報 2007.3.17]