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〈人物で見る朝鮮科学史−28〉 高麗の科学文化(1)

高麗時代の天文観測記録

天文台

 918年に王建が建国した高麗は936年に全国統一を果たし、その後1392年までの約500年間、文化的にも隆盛を極め世界的にも知られた。英語のコリアが高麗に由来することはあらためて述べるまでもない。ちなみに、筆者が教壇に立つ朝鮮大学校の英語名であるコリア・ユニバーシティは、ソウルでは高麗大学校を指す。

 高麗の優れた科学技術は多岐にわたるが、まず、第一に挙げなければならないのは天文学である。高麗時代の天文観測記録は、「高麗史」の天文志および五行志に記録されているが、そこには日食135回、彗星87回などの記録がある。特筆すべきは太陽黒点に関する記録で1024〜1383年までに34回が確認されている。一般的には1610年のガリレオによる発見が世界最初といわれているが、高麗の観測はそれよりも500年以上も早い。さらに重要なことは長期間にわたって観測されたことで、その間隔7.3〜17.1年から平均周期が確認できることである。太陽黒点の数が11年周期で増減を繰り返すことは1843年に発見された事実で、これが太陽物理学の基礎となった。高麗の観測記録はそれに先立つものであると同時に、約800年前の太陽も現在と同じような活動を行っていたことを実証する実に貴重な資料なのである。

復元図

 余談になるが、イタリアのフィレンツェ科学史博物館にはガリレオの望遠鏡(19世紀の複製品)が所蔵されており、東京の国立科学博物館で展示されたことがあった。1メートルほどの望遠鏡で、これでよく土星の輪や木星の衛星が確認できたものだ、と感心したことがある。

 高麗には「書雲観」と呼ばれる天文観測を担当する部署があったが、開城の宮廷址の近くには写真のような天文台の築台が残っている。花崗岩製で四隅と真中の柱によって2階部分の床を支えているが、その床にはいくつかの穴があり、そこに柱を立て上部にも構造物があったと考えられている。図は、その考えに基づく復元想像図であるが、有名な慶州の新羅・瞻星台と比べ非常にすっきりとした様式である。築台は真北から東に15度傾いており、地球自転軸の1年の変化から逆算して918年に建造されたものではないかと推定されている。

 天文観測は暦書の作成に役立てられたが、とくに書雲観・官吏であった姜保が1343年に執筆した「授時暦捷法立成」は高い水準の天文理論書と評価されている。例えば、そこでは季節によって異なる黄道上での太陽の早さを求めているが、高次補間法と多項式に関する便利な計算式が用いられており、それは18世紀のイギリスの数学者ホーナーによる方法と類似するものであることが、最近の研究によって明らかになっている。(任正爀、朝鮮大学校理工学部教授、科協中央研究部長)

[朝鮮新報 2007.3.23]