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〈遺骨は叫ぶA〉 岩本発電所 飢えに苦しみ逃亡、絶望して自殺者も

落盤死、転落死、トロッコとの衝突死

後閑地下工場の入口は、いまでも見ることができる

 群馬県の北部から流れる利根川に沿って、JR上越線が走っている。沼田市の岩本駅の裏側に、東京電力の長い導水管と岩本発電所が見えるが、この発電所は、太平洋戦争の末期に、京浜地区軍需工場の電力不足を補うために計画された。工事は、間組利根川出張所が請け負ったが、この発電所の水は、利根川の約20キロの上流に取水口を造り、支流の赤谷川の水も引いたもので、当時としては大工事であった。導水トンネルの工事が始められた1944年には、働ける日本人を集めることが不可能になっていたので、約1000人の強制連行した朝鮮人を動員したことは「朝鮮人に関しては、当社の労務課が朝鮮に数回募集にいった。動員された朝鮮人の数は、約1000人に達した」(間組百年史)と社史にも書いている。

 同じ時期に中国人たちも利根川出張所に連行されている。1944年4月に、直接中国から612人が船に乗ったものの、途中で6人が死亡し、606人が到着している。間組では取水口から発電所までの利根川に沿って、8棟の飯場を造り、そこに朝鮮人や中国人を収容した。作業は、はじめに材料運搬をやり、馴れてからトンネルを掘る仕事をした。完成を急ぐ作業だったので、仕事は苛酷をきわめ、落盤死、転落死、トロッコへの衝突死などが多発した。危険な作業現場だったことをこれらの死因は語っている。

利根川につくられた岩本発電所の取水口

 また、朝鮮人や中国人が利根川出張所の現場に来た時から、健康状態は悪く、「すでに極限状況であった。当時、食料は非常に粗悪で、かぼちゃ、とうもろこし、さつまいもなどが主食であったが、それすらも満足には食べられない慢性的な飢餓状態にあった。過酷な作業のために死亡者が続出し、中国人は43名が死亡した。また、こうした劣悪な条件に耐えられず逃亡する朝鮮人、中国人も相次いだ」と、間組の社史に書かれている。粉に豆を入れて作った人の拳ほどの小さな饅頭が一食に3個だったというから、これでは重労働などできるものではない。作業の合間に水を飲んでは飢えを凌いだというが、これも監督に見つかると、棍棒で殴られた。仕事の行き帰りに道端で食べる雑草で空腹を満たすことも多かった。

 5月の雪解けで増水した時に、河原に建てた飯場が流され、川下で死体で上がったりした。また、そのまま流されて行方不明になった人もいた。夜に逃亡した人が捕まり、しばられて飯場の前に座らされると、同じ飯場の朝鮮人に棍棒で殴らせた。殴らなければその人が監督に死ぬほどぶたれた。涙を流しながら同胞を殴る人もいたが、殴られて絶望する人もいたというから、毎日が地獄だったにちがいない。作業が難儀なうえ、栄養失調で体が痩せ細り、前途に希望を失って自殺する人もいた。のちに見つかった死亡者の診断書(多くが信用できないと言われているが)が「溺死」となっているのはこの人なのかもしれない。

 これほど多くの犠牲を出して工事が進められていた岩本発電所の建設は、1945年3月に突然中止になった。近くの旧古馬牧村(現みなかみ町)後閑(JR上越線後閑駅の東の山麓)で、中島飛行機後閑地下工場の建設工事が始まり、間組後閑出張所がこの工事を請け負った。生き残った朝鮮人、中国人の連行者たちは、全員この現場に移された。

 中島飛行機は、戦時中に日本の軍用飛行機の約30%を製造していた。だが、1945年2月に、米空軍の爆撃を受け、ほぼ壊滅状態になった。そのため海軍の軍用機を製造していた小泉工場の疎開先として、後閑地下工場が造られることになった。まっさきに海軍第3013設営隊600人が来て工事にあたったが、労働の主力は、朝鮮人と中国人だった。はじめは利根川から基礎用の玉石を運搬したが、すぐに地下工場の掘削に従事した。火急を要する工事なので労働時間も長くなったが、食料は逆に不足したという。

 「やせ衰えた五体に頭髪ばかりがいやに伸び、手足の皮膚は、黒光りするほど厚くなった垢がひだをつくり、奥深くくぼんだ眼光だけが異様に輝いていた」と、工場が建設されていた「古馬牧村史」に書いている。手で押すと倒れ、倒れるとしばらく起き上がれないほど弱り、骸の集まりのようだったとも書いている。

 地下工場の入り口は7本で、深さは150メートルほどだった。碁盤の目のように20数本の横穴が掘られ、中ではトラックが自由に方向転換ができるほど広かった。工場は、7月末に完成し、工作機械も据え付けられ、約4000人の工員が働くことになった直前に、8月15日の敗戦ですべての作業が中止になった。

 岩本発電所の導水トンネル工事で49人、後閑地下工事で10人の中国人が死亡し、如意寺境内に中国人殉難者慰霊の碑が建っているが、朝鮮人は死者さえ不明だった。のちに、群馬県朝鮮人、韓国人強制連行犠牲者追悼碑を建てる会の人たちの手で、二つの工事現場で23人の朝鮮人死者が確認されたものの、「このほかに、氏名も人数もわからない供養も埋葬もされず、土中に眠る多数の犠牲者」がいるという。

 2004年に県立公園「群馬の森」に、群馬県内に強制連行されて犠牲になった朝鮮人の追悼碑「記憶、反省、そして友好」が建てられた。(作家、野添憲治)

[朝鮮新報 2007.3.27]