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〈朝鮮通信使来聘400年−4−〉 通信使江戸に行く

仇敵に拝礼、涙流し憤慨

 通信使派遣が決定されると、国王は正使、副使、従事官の三使を任命する。

 品格があり、学識豊かで、容姿の優れた者を選ぶ。何しろ朝鮮国を代表して外地に行くので、国威を辱めない人物を選定する。

 ところが、三使たちはこの名誉を必ずしも喜んでばかりいたわけではない。

 明(清)への使節に選ばれると手放しで喜ぶのに、日本行きはそうではなかった。

 清には進んだ文物があふれ、学ぶべきことも少なくない。貿易上の利益もあった。しかし日本には、とりたてて学ぶことも、欲しい物もない。ましてや仇敵である。

 第2次通信使の従事官は日記に「…この仇敵に拝礼することは、初めから知らぬわけではなかったが、ここにきて膝を屈するに至り、心胆は張り裂けんばかりであった。帰って来て食を断ち、涙を流して憤慨に堪えがたい」と記している。

 だから日本への使節は、「失敗は許されない」というプレッシャーだけが負担になった。

 見送る家族たちも離別の涙を流し、無事の帰還を祈る有様であった。

 何しろ蛮夷の国に行き、国の文威を誇示しなければならない。

 国王は、出発する三使たちを接見し、王のシンボルである「割符とまさかり」を与える。国王の行列の先頭に立てる「清道」の旗を与える。

 三使は、釜山東莱に向かう道中で、地方長官たちの送別宴を受け、海神祭の後、日本船の案内の下に対馬に向かう。対馬から(水路)大坂へ、江戸へと向かう。

 通信使一行と、接待と護衛の供と人足たち、総勢2000の大行列が江戸へ行く。

 徳川幕府一代の盛儀であり、一大国際交流イベントであった。

 江戸に向かう通信使の道中は、黒山の見物人の中を縫って進んだ。

 宿所には、学者、医者、本草学者、画家たちがひっきりなしに面談に来て休む暇もない。

 三使がソウルに帰って国王に復命したおり、ある副使は、日本人に望まれて書いた漢詩が3000枚にもなったと報告している。

 通信使一行には、徳川幕府の要望によって、良医、画員、馬上才の技能者たちが加わっていた。

 幕府の執政や高位の者たちも、使臣に対して実に丁重な接待と言葉づかいをしている。

 通信国とは対等な関係なのに、勅使とか、大国という言葉を使っている。

 第3次の副使(姜弘重)の日記には、老中の忠世と利勝が使臣に対して「大国の使臣」という言葉を使っている。

 また、接待の代官などが「勅使」という言葉を使っていると記している。

 通信使歓迎では民衆も負けてはいない。

 江戸では「町のあちこちで朝鮮人の衣装を真似て着用し、鳴り物などを交えて夜に辻踊りをする者が絶えない」(上田正昭、京都大学名誉教授)有様であった。

 各地の神事の芸能、祭礼行列に通信使のもたらした異国文化が伝承された。

 今では岡山県牛窓町の唐子踊り、三重県鈴鹿市の唐人踊りなどにその伝統がわずかに伝えられている。唐とは、韓のことである。

 江戸時代の民衆の熱狂的な国際交流の意義は、明治の時代に入って意図的に消し去られていった。

 明治になってからは、通信使は「朝貢使」にすり替えられ、江戸時代の朝鮮と日本の友好は忘れられ、歪められてしまった。(金宗鎭、社協東海支部会長)

[朝鮮新報 2007.3.30]