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あるハルモニの述懐 頭から離れない「平和」

 朝鮮の南の島、済州島で生まれました。

 むすめのころは、家の手伝いをしていました。

 水くみと、子守りとご飯炊きです。ブタのせわもしました。たまごもとりにいきました。牛や馬のせわもしていました。

 たまごを売りに行った店も、水をくみに行ったところも、今でもあります。済州島に行って、そこへ行けばなつかしいです。

済州島の海で

 島には、日本の飛行場があって、爆弾が落とされるからあぶないと、山にかくれたことがあります。そのとき、白いチョゴリに黒いてんてんがつきました。何か飛行機から落とされたと思います。こわかったのをおぼえています。

 おじいさんは、長くのばした髪をきらされ、さびしそうだったのをおぼえています。日本の命令だから仕方なかったのです。

 そのころ、朝鮮では、何でも日本の言うとおりにするしかなかったのです。

 うちの家の朝鮮名は、命令で、日本名にかえさせられました。先祖からの名前まで日本にとりあげられたのです。

 家にたくさんあった法事に使うしんちゅうの道具を、てっぽうの弾にするため取り上げられました。

 それで、オモニは、胸をいためていたのをおぼえています。磨いたらぴかぴかになる、先祖から伝わった食器です。

 戦争中、5月に結婚し、8月に日本が戦争にまけて、朝鮮は植民地から解放になりました。しばらくして日本軍の建物あとに中学校ができて、主人はそこで勉強しました。でも女の私は、学校に行けませんでした。

 これから国が独立するのでみんなでわっちゃわっちゃしていたら、朝になって警察が家々を調べにまわりました。島はだんだん厳しくなって、人が行ったり、来たりできなくなりました。

 村は、命令で火をつけられて、夜には、真っ赤な火のかたまりが上がりました。

 また戦争が始まったみたいでした。女、子どもがたくさん殺されました。村の人が畑に集められて、鉄砲でうたれました。

 「北」やとか「南」やとかでふつうの人まで殺されました。息子がいなければ父親が殺され、息子がかくれたら、母親が殺されました。何の罪もない人までたくさん死にました。島を出ていて帰れず、日本に行った主人から手紙がきました。主人は日本で、ものすごく苦労していました。

 私は、隠れて日本へ来ました。主人は、つかまったら国へ帰ったらええ、なんで日本で、苦労せなあかんと、いつも言っていました。あのとき、国へ帰ったらよかったと思います。いまでも済州島に行ったら思い出します。

 人には言えないほど悲しいです。

 主人が亡くなって、夜間中学に行きました。友だちの顔を見て、話を聞いて、いろんなことを感じています。私はいままで、何をして生きてきたのかと考えたりしています。

 若い人は、人を愛し、家族を愛し、まわりを愛し、大事にするほどりっぱな人になると思います。

 わたしは、若い人が戦争やあらそいで死んでいって、どれだけくやしかっただろうと思っています。若い者たちがどれだけ死んでいったか見てきた私は、言葉になりません。娘や孫たちにわたしらが生きてきた歴史を伝えないとあかんと思っています。それが書けたら、夜間中学に来たねうちがあると思います。

 学校では「平和」といつも書きます。「平和」という言葉は、頭から離れません。それがいまの私にできることです。

 (夜間中学の「生活体験文集」から、82、大阪府在住)

[朝鮮新報 2007.4.3]