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〈朝鮮と日本の詩人-27-〉 福中都生子

 「ベトナム戦争は終わった/アメリカは逃げていった/赤い解放旗がはためいている」(「それでもやはり悲しいのは」部分)。

 このような詩を書く福中都生子は、1928年に東京で生まれたが、3歳の時に父の赴任先である忠清南道に行き、6歳から10歳まで大田の小学校で学んだ。

 40年に父の郷里・石川県河北郡に帰り高等女学校を経て日赤甲種救看学校を卒業した。47年から短歌と詩を書き始め、短歌的叙情を否定する小野十三郎に強く影響されて100余篇の詩を書き、彼の序文を巻頭に第一詩集「灰色の壁に」を30歳で出版した。第二詩集「雲の劇場」(60年)が室生犀星の激励をうけたことで詩人として自立する決意を固め、民主的な文学団体「新日本文学会」に入会した。以後女流特有のやわらかな詩的境地を開拓し、78年には「福中都生子全詩集」で第11回小熊秀雄賞を受賞した。日本現代詩文庫の第18集「福中都生子詩集」に「木浦という町」という全3連42行の詩がある。「木浦という町に/一度だけ行ったことがある/小学三年生の夏だった」で始まるこの詩は、次の12行で終わっている。

 モッポという町から/金大中という人が産まれ/すぐ近くの光州という町で/学生デモの弾圧があったなんて/そのころオカッパのわたしはなんにも知らずに歩いていた。/わたしが歩いたそのうしろから/鎖につながれた学生たちが泣きながら/黄色い海に向かって追いたてられていたなんて/その血と涙の結晶で黄海は夕焼けよりももっと赤く/炎のように猛り狂う日があると/今わたしは/知ったばかりだ

 ベトナムの解放を祝った詩人は、それと同じモチーフで5月の光州への連帯のメッセージを送った。ほかの作品に百済から渡来した女性の悲劇をうたった「石塔寺の女」がある。(卞宰洙、文藝評論家)

[朝鮮新報 2007.4.5]