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〈生涯現役〉 朝鮮民謡口ずさんで70余年−高★来さん(★=辶に峯)

 女性同盟大阪・生野南支部副委員長などを務め、現在は同支部顧問の高★来さん(81)(★=辶に峯)。植民地時代の1926年、済州道済州邑で産声をあげた。

 高さんの生まれる数年前に起きた3.1独立運動によって大きな衝撃と揺さぶりを受けた日本帝国主義は、ますます朝鮮支配を固め、米収奪などを通じて民衆の生活を圧迫していった。

「誓詞」の朗誦強要

幼い頃から働き詰めだった高さん

 日本の支配化で餓死する人々、そして、やむをえず故郷を捨て、渡日する人々…。高さんの少女時代は、どこの邑を見てもそんな惨状であった。

 37年、日中全面戦争が始まると、朝鮮では植民地支配の最高目標として「内鮮一体」が提唱された。朝鮮人に宮城遥拝、神社参拝・一面(邑)一神社設置などを強制し、同年10月2日には、「皇国臣民ノ誓詞」を制定した。11歳の高さんもその「誓詞」を、邑の広場に集められて、連日、繰り返し朗誦させられたという。

 「一、我等ハ皇国臣民ナリ。一、忠誠ヲ以テ君国ニ報ゼン、一、我等皇国臣民ハ 互ニ信愛協力シ 以テ団結ヲ固クセン。一、我等皇国臣民ハ、忍苦鍛錬力ヲ養ヒ 以テ皇道ヲ宣揚セン」

 両親は、高さんが生まれるとすぐ仕事を求めて渡日した。幼い頃から祖父母の世話、賄、針仕事などの家事に励み、時には海女の仕事もこなした。そのうえ、邑役場からは塩田作りや田んぼの草取りはじめあらゆる農作業に駆り出される日々だった。また、邑の広場に朝6時のサイレンを合図に集められ、軍隊式に整列させられて、君が代を歌わされた。

夜間中学で漢字を学んだ頃

 「朝鮮語で話したりすると、ギザギザに刻まれた松ノ木の棍棒を持った日本人の手先が駆けつけて、殴った。そして、ぬれたタオルで目隠しされ、水を入れたバケツを持って何時間も立たされて…」

 4姉弟の長女だったが、長女の高さん一人だけが、島に残った。連日の重労働の疲れと父母恋しさを紛らわせるために、時々、近くの山に登っては、眼下に広がる海を見渡して、日本から来る連絡船を待ち続けたという。「友に牛一頭を連れてね。大声で泣いても、牛の前だと恥ずかしくないから。船が通るたびに、もしかしたら両親が乗っているような気がしたものだった」

 その山で涙ながらに口ずさんだ歌が「アリラン」「サンボタリョン」…などの民謡だった。それから70年経った今も、朝鮮民謡を口ずさむと心が和み、癒されるとほほえむ。

夜間中学に9年

 43年、海女30人と一緒に下関へ。17歳だった。島根県隠岐の島や長崎の海に潜った。20歳で同郷の夫・趙東春さんと結婚し、和歌山へ。やはり、海女をしながら、アワビ捕りに励み、家計を支えた。夫は北海道のでんぷん、小豆などと大阪の長靴を交換する仲買人の仕事に就いたが、祖国解放とともに、愛国活動(非専従)の道へ。

チャンゴの名手でもある高さん

 高さんは懸命に働いて貯めた資金を元手に大阪・玉造に洋服工場を造り、逸早く商売の基盤を整えた。洋服、ジャンパーなどを一貫生産して、商売は大当たり。

 その間、子どもが3人生まれたが、3人とも病で失うという悲運に見舞われた。あまりの悲しみに一時は夫との別れも考えたという高さん。その苦痛を乗り超えて授かったのが、現在、岡山朝鮮初中級学校校長・趙邦佑さん(56)。それから次々と邦玉さん(54)、邦鎬さん(51)、邦順さん(46)ら3男1女に恵まれる。音楽好きの夫婦は58年、当時30万円もしたピアノを惜しげもなく子どもたちに買い与えた。

 「大阪朝高の先生に、そのお金があれば、商売の資金に十分なお金になったはず、と冷やかされもしたが、子どもの教育には代えられないと思った」

 権利闘争に燃える60年代からは、夫婦で総連大阪南支部副委員長、女性同盟南支部副委員長の専任として活動するようになった。夫は50歳になっていた。

 「19歳まで、故郷にいたが、『皇国臣民化』という名の奴隷教育を受け、学校にも行けず、満足な教育も受けられなかった。私たちの世代は亡国の民の悲惨な体験を通じて、祖国の大切さを肌身に感じている。だから、息子が民族教育の現場で汗を流してくれることが一番うれしい」

 故郷の邑で鍛えた豊かな音楽的才能は、女性同盟の中央音楽コンクールで花開き、優勝の栄冠に輝いたことも。「牡丹峰」を披露した際、韓徳銖議長から「あなたの歌には民族の味がある」と褒められたことが忘れられないと顔を高潮させた。いまでも同胞の集いで自慢のノドを披露しては、拍手喝さいを受ける。夜間中学も9年通って、不自由なく読み書きができるようになった。

 生涯学び、同胞のために汗を流し続ける「老当益壮」、ますます元気な81歳。(朴日粉記者)

[朝鮮新報 2007.4.14]