〈朝鮮通信使来聘400年−5−〉 江戸日本と朝鮮の貿易 |
日本の衣料革命をもたらす 「17〜19世紀に朝鮮と清、朝鮮と日本間の貿易はどの時代よりも活発に展開された」と、「朝鮮商業史」は評価する。 あまり知られていないが、江戸・日本と朝鮮は、最大の貿易取引国であり、長崎港の貿易よりも重要な貿易相手であった。 日本では朝鮮貿易を「対馬藩の貿易」と片付けているが、実は対馬藩は、徳川家康から外交、貿易、駐朝大使の役目を仰せつかった「外務省・通産省」であったのである。 17〜19世紀の朝鮮貿易は、清・朝・日を結ぶ仲介貿易であった。 朝鮮から清に、朝鮮人参と銀、清からは、生糸(絹)、朝鮮から日本に、朝鮮人参と木綿、生糸、日本から朝鮮に銀が取引された。 松商(開城商人)を中心にした朝鮮商人は、燕行使に加わり、生糸を仕入れて倭館(釜山東莱)で日本商人に売った。 日本にはこれといった産物がないので、銀や銅で決済した。 清に向かって江戸・日本から大量の銀の流れができた。米大陸からはイギリスを介して、大量の銀が清に流れ込んだ。まさに銀の道(シルバーロード)ができ上がっていた。 日本の銀は、公的には江戸幕府から出たが、対馬藩は京商人や江戸商人からも銀の融資を受けていた。 東京の銀座は、江戸幕府が銀貨を鋳造した場所で、かつては朝鮮貿易で大きな働きをした所であった。日本の銀といえば、朝鮮の銀生産技術(灰吹法)が伝わった以後に、銀の大量生産が可能になったといえる。石見銀山などの大量生産は、労働力の不足をきたし、江戸幕府は無宿者をとらえて送り込んでいる。 朝鮮と日本の貿易は、公貿易、私貿易、そして密貿易の形で行われた。 主な取引は倭館で行われた。 1673年当時の倭館には、1000人の日本人が居住していた。 「李朝実録」によれば、1677年の日本商人の銀未払い額が100万両にも達したという。1700年には、年間12万両の銀が朝鮮に流入している。 朝鮮人参貿易は、利益が大きかったので密貿易が盛んに行われた。見つかれば磔にされたが、命よりも金が欲しい者は今も昔も変わらない。 なにしろ公取引でも倭館で1斤(600グラム)70両が、日本では300両で売れたからたまらない商売である。 生糸の取引で、17世紀後半の対馬は、長崎よりも10万両から20万両の利益を上げたと最近の研究は語る。 豪商三井による生糸の資金投資は、18世紀に入っても衰えなかった。 この朝鮮貿易を維持するために、江戸幕府は並々ならぬ努力を傾けている。 朝鮮貿易の決済として使われた銀貨「丁銀」が改鋳により純度が落ちて、朝鮮側から取引を拒否されると、対馬藩の要求を入れて特別に「人参代往古銀」を銀座で鋳造した。 また江戸幕府は、新井白石の銀輸出を抑える政策発表のおりにも、対馬の雨森芳洲の意見を入れて、長崎貿易では抑制しながらも対馬貿易では銀の流出を認めることになった。 そればかりか、幕府は貿易のために対馬に「下賜金」「拝借金」などの名目で数十回の援助を行っている。 江戸・日本にとって、朝鮮から輸入される木綿、朝鮮人参、生糸は、日本の衣料革命、医学と医薬の発展のためには欠くことのできない物産であったのである。特に木綿は、衣料、ふとん、船の帆、地曳網、綿実油(灯油)等々、生産と生活の大きな改善をもたらした。(金宗鎭、社協東海支部会長) [朝鮮新報 2007.4.20] |