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〈本の紹介〉 記憶と沈黙 辺見庸コレクション1

記憶殺しに加担してはならない

 作家の辺見庸さんが、脳出血とガンに冒され、その壮絶な闘病を経て、病床から復帰、大車輪で言論活動に励んでいる。昨年4月、「自分自身への審問」(毎日新聞社刊)を、昨年7月に「いまここに在ることの恥−恥なき国の恥なき時代に」(同上)を上梓した。今回、満を持して刊行されたのは、辺見庸コレクション(巻数未定)1「記憶と沈黙」(同上)である。

 辺見さんは、本書の中でこう書く。「忘却が記憶を制圧してはならない。忘却による記憶殺しを許してはならない。少なくともこれからは記憶殺しに加担してはならない」と。敗戦から60年を経た日本では、この言葉とは裏腹の光景が繰り広げられている。

 「従軍慰安婦」問題、「強制連行」、日本の戦争責任問題…をめぐって、まるで「忘却が記憶を制圧し、忘却による記憶殺しがのさばっている」状況が、繰り広げられているのだ。

 歴史に関する驚くべき無恥、無知、重篤な健忘症である。「朝鮮半島、中国でくりひろげてきた、ほとんど名状が困難なほどの犯罪。…皇民化政策も創氏改名も『日帝三十六年』も朝鮮教育令、朝鮮人強制連行も忘れ去り、忘却することで居座る。恥知らずなみずからの尊大さにも気づかない。そうした空気が知らない間に蔓延している」日本。

 かつて、文化庁長官を務めた作家・三浦朱門氏は「朝鮮人強制連行もなかった−『従軍慰安婦』も強制ではなかった−」などと臆面もなく言い放った人物である。あるときには、「女性を強姦する体力がないのは男として恥ずべきこと」と発言した野卑な人物でもある。この人物は、「文化功労者」にもなっていて、「教科書改善連絡協議会」や「教育課程審議会」の会長も務め、教科書行政に強い影響力をもつといわれる。

 「従軍慰安婦」や沖縄戦の「集団自決」の記述が、近年の教科書で改ざん、否認、抹消されているのを見ると、すでに状況は最悪の状況に至っているということか。

 辺見さんはこう憤激する。「思えばひどい話ではないか。学ぶべき歴史を学ばせない。記憶すべき過去を抹消する。歴史をパッチワークのようにつぎ合わせて、あった過去を消し、ありもしなかった過去をねつ造する。これほど恐ろしい暴力はない」と。

 拉致問題は、現在の朝・日関係のギャップだけでなく、過去の闇の深さを測り、歴史の不公平さにつくづく思いをいたす大事なきっかけだったはず。しかし、「現状は老若のファシストが息を吹き返す奇態な回路ともなっている」と指摘する。

 今また日本では過去の辛い体験さえ語らせない大きな力が再び台頭しようとしている。

 被害の記憶そのものが「隠ぺい、否認、わい曲、抹消といった暴力にさらされている」(高橋哲哉、東大教授)時代でもある。侵略戦争を正当化しようとする政治家、閣僚たちの相次ぐ妄言は日常茶飯事の風景である。

 こうした動きに異議申し立てをするさまざまな動きも活発化している。

 「慰安婦」にされた女性たちの日常を追った映画「ナヌムの家」を撮った南朝鮮の邊永姓監督は「性暴力、性差別は過去の問題ではなく、ハルモニたちが、そして私たち自身が抱える今の問題であり、今の生き方や今の痛みこそが大事」だという認識を示す。そして「私にとってドキュメンタリーはイデオロギー。もっと自分のイデオロギーを大切にしろと、若い人に言いたい」と語った。政治や歴史に無関心で、自分のことしか考えない若者が増えている風潮への厳しい叱責であろう。

 記憶を謀殺しようとする者らに抗して湧き出ずる言葉を駆使しながら不屈の精神で闘う辺見さん。

 身体的な不自由さをもっと自由な思索と思想の武器に変えて、血を吐く思いで書き上げた本書。

 狂の時代に挑む「独航記」であり、鬼気せまる孤高の文章には、時代を剥がす思考が凝縮されている。

 これまで発表されてきた評論、エッセイに加え、渾身の書き下ろし作品を収録。(毎日新聞社、1500円+税、TEL 03・3212・0321)(朴日粉記者)

[朝鮮新報 2007.4.23]