top_rogo.gif (16396 bytes)

「子育てエッセー」受賞作品 「いざ行かん、在日コリアンの看板しょって」

 朝鮮新報では、このところ「学童保育」ネタが盛んだ。ウリハッキョの父母たちの中でも共働きが増え、子どもたちの放課後対策が求められているからだ。あちこちのハッキョで色んな試みがなされている中、以前から放課後対策についての要望が高かったという東京朝鮮第3初級学校がちょっと特長的な「学童保育」を試行中だという記事が載った。同校では、月曜日から金曜日までの放課後、習字やサッカー・バスケット・芸術などの色んな教室に日替わりで参加することができるという。ここまではごく普通にある話、だがこれはウリハッキョの子どもたちだけのためのものではなく、日本学校に通う地域の同胞子女までも網羅し、彼らが民族の言葉や文化に触れ、互いに交流しあうことまでも視野に入れた事業だという。逆の発想ということか。

朴明姫さん

 だが、それとは別に私は「その記事」に(ちょっともったいないな…。)と思った。それは、その記事にはこうも書かれてあったから。

 「日本の学童保育施設に通わせて、子どもたちが日本の子どもたちにいじめられないとも限らない、などという理由で、ウリハッキョ内学童保育が切実に求められている」と。

 子どもをウリハッキョで学ばせている親の多くが、居住市区町村の放課後対策に不安を抱いていて、「子どもたちを日本の子どもたちのいじめから守る」ために「ウリハッキョ内学童保育」を求めているということらしい。が、それはあまりにも残念。だって、いじめられるかどうかなんて、入って見なきゃ解らないのに。もっともっと大切な経験をたくさんさせてもらえる、またとない機会かもしれないのに。

 なぜなら、学童保育クラブというのは、共働きの家庭の低学年の子どもたちが、放課後を過ごす生活の場。

 イメージしてみて! 親代わりの指導員の先生に、まとわりつく大勢の子どもたち。宿題だってそこでするし、おやつも出る。コンセプトは「昼間の兄弟」。

 ウリハッキョは基本的に遠く(ちなみにうちだと一時間くらい)、家の近くに友達が少ないという状況で、こんなに素敵な触れ合いを自分から放棄するなんて、なんてもったいない!そうは思わない?

 「いじめ」、がまったくないとは言わない、あるかもしれない。そう言えば、亡くなったうちのシアボジが、居住区の高齢者プログラム(ふれあい銭湯とかデイケアとか)に参加するのを嫌がっていたことをふと思い出した。案内のハガキがゴミ箱に捨てられているのを見て、どうして行かないのかとシアボジに尋ねると、「同じくらいの歳の人間が集まると、軍隊の話になるからなぁ」とさびしそうに言っていた。だから、ハラボジ、ハルモニに対しては「ウリ高齢者ホーム」のようなものが必要だ。かたくなになって口数が少なくなったりしたら本当に大変だもの。

 けれども、子どもたちはこれから日本で生きて行くのだから、色んな場所に積極的に飛びこんでいくべきだと思う。そもそも、日本社会における差別や偏見によるいじめなど、憂慮している大半の問題の根本は、お互いのコミュニケーション不足による「無理解」が多い。それを解決するには、日本の人達と共に楽しい時間を過ごすことが大切ではなかろうか。そしてそれを実践することのできるのは私たちしかいないのだから。

 先入観に縛られて最初から出て行かないというのは、ウリハッキョの子どもたちと日本学校の子どもたち同士が同じ視点で触れ合い、学ぶまたとない機会を奪うことにならないだろうか。そして、日本の親たちに、「子育て」という同じ泥沼(!?)の中で泣き笑うパートナーという最も近い視点で、在日コリアン(特に、こんな社会情勢下で悪くは言われても良く言われる事など珍しい、ウリハッキョに通う子どもたちとその親)を見てもらえる素晴らしい場を、自分から放棄するということではないだろうか。オンマたち、がんばろうよ。子どもたちの未来のために。

いろんな場所に飛び込んで

 私が幼い頃、オモニがいつも言っていた。「在日コリアンの看板背負って生きてるんだもの。日本人の3 倍くらい良い事をしないと同等に見てはもらえないよ。だからがんばりなさい」と。

 人間らしく胸を張って生きるためだけに、そんなにがんばらなくてはならないのか、と子どもながらに理不尽だなとも思った。が、それはある意味仕方のないことだし、堂々と生きられればそれで良いと両親の背中を見ながら自然に受け入れた。考えて見ればその時代(今から30年以上も前)、在日コリアンとして胸張って生きるのは、今よりももっともっと大変だったはず。オモニって偉かったんだな、と今更ながら誇らしく思う。そして月日は流れ、時代を超えてそれを受け継ごうと思った私が掲げた看板はこれです。

 「明るく楽しい在日コリアン、鄭(チョン)さん一家ここに有り」

人間らしく胸を張って

 さて、地域社会に溶け込む一番身近な方法は、子どもを通したお付き合いである。うちは共働きのため、子どもたちは生後57日目から保育園、その時点で保育園がらみの人間関係が生まれる。もちろんそこでも積極的に先生方や親たちと触れ合い、できることはなんでもし、親睦は深めたつもり。同じクラスの父母たちには「在日コリアン」の私たちを少しくらい解ってもらえただろう。

 でも、子どもたちが一人で歩き回ることのない、ある意味閉鎖された乳幼児期は交流など限られている。保育園なんて、自分のクラス以外は送り迎えの時間が重なるお母さん(お父さんも)くらいしか会わない。勝負は小学校に入ってからだ。

 うちは子どもの学校は子どもが生まれた時からウリハッキョに決めていた。ところが、少子化や情勢の悪化でウリハッキョの人数は親の世代よりずいぶん減少し、同胞コミュニティ(ウリトンネ)自体、地域の日本の人達に与えられる影響なども限られてきている。

 そんな中、私たち一人一人がこの子達の未来のために何ができるのか。私が見つけた答えはこれ、在日コリアンの看板背負って胸張って生きている私たちを、周りの日本の人達に見てもらうこと。

学童クラブへ

 娘が一年生になる時、私は迷わず居住区の学区域にある学童保育クラブに入所申請をした。働く親の増加でクラブは全国的に待機児及び振り分け児多数。だが、居住区、学区域でなくては意味がない。申請書には別紙を添えて語りに語った。

 「在日コリアンの娘に自分の国の言葉や文化を学ばせるために、バスや電車を乗りついで一時間以上かかる他区の朝鮮学校で学ばせます。でも、この子たちは日本で生まれ、日本で育ち、日本で生きる子供たちです。親子共々、地域で仲良く触れ合いながら子どもを育てて行きたいのです。学校が遠いので、近くに友達がいないという状況では、子どもたちを地域で育てる事はできません。通学時間も長いので、学童クラブにいる時間も少なく、子ども自身もつらい思いをするかもしれません。でも、私たちは子どもと一緒に在日コリアンとして、地域社会の中で生きていきたいのです。そういう私たちを周りの皆に見てもらいたいのです。どうか、学区域の学童クラブに入れてください」

 直接的な審査には関係無かったかもしれないが、担当の人は読んでくれただろう。そして、無事、娘は学区域内のクラブに入所が決まった。

 学区域の学童保育クラブは、目黒区でもたった2つしかない、公立小学校の中にあるクラブだった。学区域内に住む私立や外国人学校の子供たちも通えることになってはいるが、極少数。ほとんどがその公立小学校の子どもたちだ。娘の在所中、他校生は娘一人きりだった。下校時間の遅いウリハッキョ、通学時間も長い。クラブに着くとすでにおやつの時間、仲良し同士の小さな遊びはすでに出来あがっていて、おやつの後でもその続きが始まる。「クラブに着いたらもうグループができあがっちゃってるんだ。入れてもらえないからずっと一人で本読んでるの」と、最初の頃、娘はよく泣きそうになりながら言っていた。私だって泣きそうになりながら娘に言った。「ハッキョのトンムたちは日本学校の中に入ることだってそんなにないよね。あなたは毎日そこに通っているのよ。そこにもあなたの居場所があるの、あなたのお友達がいるの。それって、すご〜くすご〜く素敵なことだよね!」

 クラブにいる時間が少なくても、娘はがんばった。親の気持ちはちゃんと伝わっていたんだろう。クラブ最高学年の3年になったら学期のたびに班長選挙が行われ、立候補者は自分が班長になったらどういう班にしたいかの公約も掲げる。子どもたちはそれを聞いて自分が「班長」になってほしい候補者に投票する。娘は「皆が助け合う優しい班にしたいです」(ウリハッキョの精神そのままじゃないの〜!)と主張し、全回上位で当選した。夏のキャンプの、班付きのお父さんお母さんの評判も毎回手放し。「本当に頼りになる班長さんでした」

未来のために

 彼女は目黒区内の全学童クラブ対抗の秋の連合スポーツ大会で、目黒区の代表として開会宣言までさせてもらった。アッパもオンマも本当に鼻が高かったよ!

 保護者会、父母会、もろもろの自己紹介の場で、「どうも〜、在日コリアンの鄭(チョン)です。子どもは大田区の朝鮮学校に通っています。在日コリアンのための学校ですが、朝鮮や韓国と日本がトラブるたびに子どもたちが危険な目にあったりします。道であったらどうぞ声をかけてやってください」と発言。会が終わったあと、「そんなことが身近であるなんて知らなかったのよ」と心配そうに声をかけてくれるお母さん達。ずいぶん力づけてもらった。

 運動会のたびに重箱にウリパンチャンを詰めてあちこち配り歩く。保育園の時もやってきたことだけど、これも在日コリアンアピール。結婚当初の私にできたのはシヌイ(義姉)に教わったチェサパンチャンくらいだが、在日コリアンの看板を背負っててそれだけじゃマズイでしょう。第一、チヂミとナムルだけじゃ重箱うまらないし。料理本に首っ引きで毎回新作にチャレンジする。いかにも自分の得意料理かのように、何でもない顔をして「どうぞ〜」と勧める。ま、失敗しても相手は初めて食べるんだし、平気よ!

 学童のキャンプで肉を焼くことになったら、当然のように「肉の味つけはお願いね〜。」と言われる。(なぜに私?やっぱり、在日=焼肉?だよな)と思いながら「オッケー!」と軽く引き受けるが、うちの冷蔵庫の中には○バラの黄金の味が!! 焼肉屋に嫁いだシヌイに速攻で長距離電話。「オンニ〜、カルビダレ教えてください〜!(半泣き)」 腕がないのがバレるので、タレは前の日に下準備してペットボトルに詰めて当日現場へ。皆に「やっぱり美味しい!チョンさん、すごい!」と言ってもらって得意満面。なにがやっぱりなんだかさっぱりわからないが。

 子どもががんばっているのに、親ががんばらないわけにはいかない。父母会の役員だって率先してやる。娘の頃から4年連続副会長の私、父母会の定例会(月1回)以外に、目黒区学童保育連絡協議会の運営委員会も入る。行政の福祉切り捨てで学童保育クラブの予算が削られ、職員も削減される。子どもたちを守らなくては!と臨時会長(副会長)会も増える、区議会議員との話し合いや署名運動なども目白押し。「オンマ、今晩もでかけちゃうの?」泣きそうな甘ったれ息子を振り払い、しっかり者の娘に言い聞かす。「あなたたちの未来のためにがんばってるんだよ!さぁ、オンマを応援して!」「オンマがんばって〜!」と送り出してくれる健気な子どもたちに感謝。半分ベソをかきはじめた息子に後ろ髪引かれながら、ママチャリで住区センターへダーッシュ!

 夫だって父母会最大行事のキャンプ委員を4年やっている。学童クラブの子どもたちは「昼間の兄弟」、したがって、他人の子も自分の子同様普通に怒る。夫は、その中でも「マジ切れパパ」の異名を持つ要注意人物。これは、ちゃぶ台返しが得意技だったというシアボジ(星一徹系)の血か?道を歩いていても、一度怒鳴られた子どもは夫の顔をみて凍りつく。何か失態がないかと目が泳ぐ。大丈夫だと解れば、何故か駆け寄ってくるんだな、これが。「わ〜い!鄭父(チョンちち)だ〜!遊ぼうよ〜!」このご時世、子どもを本気で叱れなくなった親や指導員にすこぶる評判良し。しかも子どもにはなつかれることのほうが圧倒的に多い。さすが元朝高生。

 父母会の予算が足りないので、夏祭りではボランティアでたこ焼きの屋台を出す。夫はたこ焼きの焼き手の主力メンバー。そこからつながった友達の輪は商店街関連にまで広がり、何かの折にお声がかかる。「チョンさん、次の秋祭りどうする?ヤキソバにする?」などなど。ありがたい限りである。

 学童保育クラブの先生方も、そんな私たちを理解するために努力してくださった。ウリハッキョの行事は日曜日が多い。職員の仕事としてではなく個人的に予定を組んで、ウリハッキョの運動会や学芸会を見に来てくださった。クラブでの姿とは違う娘の姿、民族衣装を着てチャンダンを奏で、舞い、ウリノレを歌う娘を見て、「どうしてこんなに苦労してまでカナンを朝鮮学校に通わせるのか、やっと解りました。朝鮮学校、素晴らしいですね!」と。ありがとうございます。

外に発信しよう

 私たちは、在日コリアンの看板をしょって生きている。前を向いてひたむきに生きているだけで、周りの人々の私たちへの理解を深める事が出来るのだ。もっと、もっと居住地域の日本の人達と触れ合って相互理解に努める事、それが子どもたちの未来へ向かって私たち一人一人ができる事だと思う。同胞コミュニティ、それは私たちが日本で生きて行く上で1番大事な物。でも、それと同時に居住地域の中で在日コリアンらしく生きて行くこと、生き様を周りの日本の人たちに見せること、それはこれからの私たちの課題ではないだろうか。子どもたちを守る為にとウリハッキョに居場所を限定し、まだまだ幼いからと社会に出た後迫り来るであろう試練から遠ざけることが親の役割ではない。無知が生む悲劇を起こさない為には地道な交流あるのみ。子どもたちが根無し草にならないためにとウリハッキョを選んだのは大正解だが、問題はその後だ。そこで培った強さを持ってどんどん外へ発信していくことが、この子たちの素晴らしい未来への道になるのではないだろうか。一部の秀でた学生達がスポーツや芸術や学術で名をとどろかせるだけが道ではない、一人一人の小さな一歩こそがまた大事だと思う。それはウリハッキョの子どもたちとオンマたちにしかできないこと、言葉を変えれば、ウリハッキョの子どもたちとオンマたちなら誰にでもできることなのだから。さあ、オンマたち、自信をもって外へ!子どもたちの未来のために!

 娘が一年生の頃だ。丁度朝日会談で拉致の事実をウリナラが認めた時期、子どもたちの安全が脅かされて、娘たちは登下校の電車やバスの中で、ウリマルで大声でしゃべらないことをソンセンニムと約束して下校した。お財布を拾って届けた娘が、交番のお巡りさんに名前を聞かれて、本名を答えても良いのかとても迷ったと言う経験を朝日新聞に投稿したことがある。娘を抱きしめて、あなたたちにとって素敵な未来になるようにオンマたちががんばるからね、とくくったその文章を読んで泣いてくれた娘の友達のお父さんがいる。それを子どもに読んで聞かせてくれたお母さんがいる。「カナンがいやな目に合わないように学童の帰り道は僕が守ってやる。」と言ってくれた娘の友達も多数。本当にありがとうね。「でもカナンのほうが強いかもね〜。」というお母さんたちのつっこみもやっぱり多かったらしいけど。

 それから4年、しっかりものの娘と違って甘えん坊で頼りない息子も一年生になり、バスと電車通学を始めたら、またもやミサイル問題で子どもたちが襲われた。新聞記事を読んで「うちのカナンは、テスは大丈夫なの?」と電話をくれた「昼間の兄弟たち」の親多数。息子の通学路に仕事場があるお母さんは、下校時間に合わせて仕事の休み時間を取って、帰り道を物陰からそっと見守ってくれた。秀君ママ、葵ちゃんママ、本当にありがとう。

 指導員の先生が、学童クラブ卒所のお祝いとして書いてくれた言葉。「むくげの花のようにりんと咲いたカナンが私たちは大好きです。これからもずっとずっと応援しています」
 そして、国際交流というテーマが与えられた学校の作文に「私の親友は在日コリアンです。彼女と私は、保育園の0歳児クラスからずっと一緒です。国籍も学校も違うけど、会うとお互いに空気みたいに過ごしています。国と国同士ももっと仲良くなると良いのにな」「僕達が人と人というレベルでずっと仲良くして行くことが、国と国とが仲良くなる第一歩だと思う。これからもずっと仲良くしたい。たとえ過去に国同士でどんなことがあったとしても。ぼくたちは二つの国の仲の良い未来に向かって生きてるんだから」と書いてくれた娘の同級生。花鈴ちゃん、健介くん、これからもずっとずっとよろしくね。

 みんなみんな、私たち家族の大事な宝物だ。そして、それは私たちが在日コリアンの看板背負って堂々と生きてきた証だ。この子たちが大きくなる頃には今よりもっと二つの国は仲良くなっているはず、私はそれを確信している。(朴明姫)

[朝鮮新報 2007.5.2]