top_rogo.gif (16396 bytes)

「子育てエッセー」受賞作品 「オモニへ」

 オモニへ

 オモニ、初めて長い手紙を送ります。いつも喋れば最後は口喧嘩になる2人ですが、私がどれ程オモニを敬愛し、尊敬し、感謝しているか、自慢のオモニであるかを伝えたくて今まで口にしなかった事、言いたかった事をこの場を借りて書きます。でも私がどんなに長い手紙を書いたとしても、オモニが私の朝鮮大学校時代に荷物とともに送ってくれた広告紙の裏に書かれた1枚の手紙には到底勝てません。4年の間それは何枚になったでしょうか。辛いとき、くじけそうなとき、見慣れたオモニの字にどれだけ安心し勇気をもらったか。いつもは、からだを気遣う優しい言葉であり、帰りたいと弱音を吐いた時はしっかりしろと厳しい言葉でした。今私は同じ事を朝大に通う娘にしています。オモニが私にした様に荷物と一緒に広告紙の裏に手紙を書き、娘もそれを楽しみにしています。親、子、孫3代にわたっての伝統になりました。

果てしない愛情

尹美生さん

 ふり返ればオモニが私達3人の子供に注いだ愛情は何と深く広く果てしないものだったでしょうか。紀伊山脈の山奥でアボジと飯場をしながら、子供を育てるその苦労がどんなものか、その当時のオモニの年に近づいて、やっと少しわかりました。そしてこの年になっても到底オモニの足元にも及ばない自分であることも。70人近い人夫の食事を作るため、単車に山の様な荷物を積んで、道もない川を渡る時こけて荷物が流れ、どんなに辛かったかというその話ひとつを聞くだけで胸が痛みます。運転手がない時はオモニがダンプカーを運転し、設計図をはじめあらゆる事務をこなし、土木1級の国家試験にも受かり、寝る暇もなく働きずくめでした。その頃の私は幼く、ドラム缶のお風呂に入った事、人夫さん達によく遊んでもらった事、お菓子を買いに遠い店まで歩いて行った事、駄々をこねてオモニを困らせた事。もうそんな事しか記憶にありません。

 オモニの苦労など知るよしもなく無邪気に遊ぶだけで、今でもその当時のオモニの苦労はまだ万分の一も解かってないでしょう。でもオモニがあらゆる暴風から私達を守るため、どれだけ自分の身を削り心を痛め盾になってきたか、それは少しはわかっています。オモニにとって、この世はあまりに不条理が大きな顔でまかりとおり、それに果敢に立ち向かったあなたを容赦なく心身共に痛めつけ、苦しめました。私も今オモニ程ではなくとも、思いどおりにいかない事の多さに時に非力を痛感します。でもオモニの苦労を思えばそれはまだまだちっぽけなもの。オモニの顔に刻まれた深いしわひとつひとつがオモニの生き様であり、葛藤の年輪です。苦しい時私はオモニの顔を思い浮かべます。オモニ〜私はオモニほど民族心が熱く、勤勉家で才能にあふれた人を今も見た事がありません。子供の時本棚には、「思想の科学」や「婦人公論」がならび、車の中にはいつも「世界」があって、一番おもしろいと常に離さず読んでいましたね。

 米帝や日本帝国主義を憎み何か事件が起きても的確に判断し、北朝鮮を非難するものは絶対に容赦しない、まさにまっかっかの「共産主義者」でした?!朝鮮をこよなく愛し月1回の古墳を歩く会に欠かさず参加し、ある歴史学者の先生も朝鮮の歴史を知りたいならオモニに聞けと言ったとか?そんな話も聞きました。朝鮮語も覚えるんだと何時間もかけて成人学校に通っていましたね。勉強の好きなオモニは子供の頃優秀だったのに日本学校の先生に、朝鮮人は級長になれないと言われ、悔しくて今も忘れない事やまた日本の青年団やPTAの役員もした話は差別の激しい中でもいかにオモニが活発だったか分かります。短歌も読み朝日歌壇にも掲載されました。そのときの記事を私は今も大事にもっています。「韓国の獄舎の床は板敷きか、さらに冷たきコンクリートか?」「天気予報は明日も仕事にならぬらし。トタンの屋根に雨ふりしきる」「わが家より貧しき人のあるを言い、傷める靴を子に揃えやる」「統一よ成れ早うなれ。朝鮮に秋雲が行く姉に会いたし」

草木にも捨て猫にも

 どれもオモニの優しさ、統一を願う気持ち、政治犯の徐勝さんの救援活動をしていた時の思い、毎日の仕事の中での不安などが伝わります。料理も添加物を一切使わず、味噌や漬物も手作りで、運動会や遠足でオモニの作ってくれるまき寿司や子供の日の特大のおにぎりの味は今も覚えています。また畑作りが天職のようなあなたは、無農薬の野菜を作り、常に自然とともに息をし、自然に心のよりどころを求めていました。育てていた桃の枝を無残に切られた時オモニがまるで自分の腕を切られたかの様に悲しんでいた姿を今も忘れる事ができません。花一輪、捨て猫一匹にも命あるものをと慈しむオモニでした。洋裁も自己流だといいながら、自分のスーツはもちろん、私のセーラー服から実習に着て行くスーツ、初孫の産着まで、子供の時から何枚縫ってもらったかわかりません。それがどれだけ楽しみだったか。常に何事にも挑戦し続ける姿はまさに「チュチェ思想」そのものでした。豊富な知識に裏づけされたオモニの哲学は誰からも信頼され尊敬されました。そんなオモニが私にはとても自慢で、オモニさえいれば怖いものなどありませんでした。だからオモニがあまりの苦しさに耐えかねて家を出た時必死で引き止めました。オモニがいない世界など私には太陽がなくなるのと同じ事でした。今それを時々後悔する時があります。あの時引き止めなければ、オモニはもっと輝いた人生を歩めたのではと。私達がオモニの人生を豊かな才能を潰してしまったのではと。それ以後の苦しみに出会う事もなかったろうにと。でもオモニ、私達にはオモニが必要だったのです。とてもとても。

 理解してください。そしてこの年になってもオモニを守りきれない私達を許してください。いつかこの事を言いたかったのです。こんな風に書いて行くと何十枚にもなりそうなので、今から私がオモニに一番言いたくて、感謝している事を書きます。

朝大入学が契機

 私達子供は近くに朝鮮学校がなかったので、自然と日本学校に通い姉、兄も日本の大学に進みました。高校時代3人とも市内の学校の近くに下宿したとき、オモニが忙しい仕事の合間をぬって夜中往復4時間もかけておかずや野菜を運んでくれた事を今も忘れません。オモニは地域の社会と共生して暮らす事も大事と言っていましたが、私も高校まで民族学校も総連組織も何も知らず通名で過ごし、そんな日本学校に通う朝鮮の子供達の殆どがそうであるように、私も高校で厚い壁にぶつかりました。それは外部からではなく内部からの壁でした。周りには日本人しかいなく朝鮮人である事実を友達にも伝えられず朝鮮人である事に自負心をもてない、表と裏の二つの顔を使い分けた苦しい3年間でした。でも朝鮮の歴史も知らず、文化にも触れる事のない私は当然のように日本の大学を受験し行くつもりでした。でもオモニは朝鮮語も喋れず通名で日本人のようなそんな私達の姿に危惧を感じたのか、なんと私が高校3年の夏休み兄弟3人を連れて朝鮮大学校の見学に連れて行きましたね。なんと大胆で思い切った行動だったでしょう。和歌山から東京まであの当時どれだけ時間がかかり、費用も半端ではなかったはず〜オモニだからできる発想でした。朝大は初めて触れる未知の世界でした。今だから言いますが、教室をのぞいた時いっせいに学生たちが立ちあがって挨拶をしてくれた光景になぜか威圧感を感じ、なんと私は絶対にここには来まいと固く決心したのです。

 オモニのもくろみとはうらはらに!その後一応朝大も受験しましたが、東京の女子大を受験し合格したのでそこの学校しか頭にありませんでした。しかし一本の電話のやりとりが私の運命を180度変えました。あの日の光景まで覚えてます。下宿からオモニに受かった女子大への入学金の振込の電話をかけた時オモニが私に言いました。「朝大に行ってくれないか」と。姉も兄も日本の大学に行き、残るのは私だけでした。常日頃朝鮮語を誰もわからないことを情けなく思っていたオモニの気持ちが痛いほどわかり私はいやだといえませんでした。はじめて見る世界に恐怖すらあったのに。

 「はい」と返事をし、そのあと私は朝大に行き、姉は朝鮮新報社に入って日本語版の担当になり、兄は東京の大学だったので留学同に入り、こうして組織を知らなかった兄弟3人はいっぺんにして、総聯と朝鮮学校を知る事になったのです。あの時オモニの決断がなければ、電話で一言がなければ、私は今も通名で本名も名乗れず日本人のふりをしながら卑屈に生きていたでしょう。私がオモニに一番感謝している事−。それは朝大に送ってくれた事です。朝鮮人として生きる事を初めて否定せず肯定できたのです。もちろん朝大ではいい事ばかりではありません。日本学校と全く異なるやりかた、言葉のわからない壁、理解するまで時間もかかり悩みもしました。何回も帰りたいといいましたね。でもその度にオモニはがんばれとはねのけました。今は笑い話ですが〜。 

 自分が何人であるかわからず自分の国に誇りをもてない事ほど人として恥ずかしい事はありません。朝大ではじめて歴史を習い、やっと私はオモニがいにしえに古代の朝鮮から渡来した人々の古墳をめぐり、また米帝や日帝をあれ程憎むのかを理解しました。日本学校では決して教えてもらえなかった事です。オモニがいくら立派であっても家庭だけでは学べない事があるのを、オモニ自身が一番感じ私を朝鮮学校に送ったのですね。だから私も自分の子供たち4人は朝鮮学校でのびのび育ち、朝鮮の友達をいっぱい作ってほしい。そして私の唯一のウリハッキョ朝大にまで送るのが目標でした。それもかないました。あとどう生きるかは自分自身の問題です。もしうまくいかなくても誰のせいでもありません。一番納得のいかない言葉は、朝鮮学校に送ったからあれもこれもできないという言葉です。

枝を広げよう

 朝鮮学校は唯一民族の誇りを植えつけてくれる場所です。その基礎を幹にしてどう枝を広げるかは自身の努力の問題です。なのに思うように行かない時朝鮮学校を口実に出すのは卑怯なやりかたです。足らないものがあれば私達自身が闘い勝ち取る問題です。いつもオモニが言っていた言葉です。オモニが私を朝鮮学校に送ったように、また私も子供たちを送り、つぎは孫たちを送り、そのときごとにオモニが私達を朝大に見学に連れて行った話をするでしょう。そして荷物には広告紙の裏に手紙を書いて入れる事も伝えて行きます。オモニの紀伊山脈より高く、有田川の流れのような深い愛情の話とともに。オモニ 心から言います。ウリハッキョに入れてくれて コマッスミダ!(尹美生)

[朝鮮新報 2007.5.2]