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朝鮮通信使来聘400年記念 「誠信のまじわり−通信使の息吹」 上田正昭、仲尾宏氏が対談

今こそ日朝間に「誠信の交わり」≠

京都国際交流会館で行われた対談

 京都・高麗美術館で朝鮮通信使来日400年記念特別展「誠信のまじわり−通信使の息吹」が4月21日〜5月27日まで開かれている。今回の展示資料は書跡、絵画、工芸、考古、民俗など多岐にわたり、書跡では朝鮮通信使による外交の根本文書である「朝鮮国王国書」という最重要文書(京都大学総合博物館蔵)などが展示され、目を引いていた。一方、4月28日には京都市国際交流会館で、上田正昭・京都大学名誉教授と仲尾宏・京都造形芸術大学客員教授による記念対談が行われ、会場いっぱいの約300人の歴史ファンが詰めかけた。

 記念対談は、鄭喜斗・高麗美術館常務理事の進行で進められた。

 まず、上田氏が朝鮮通信使来聘400年の3つの歴史的意義について次のように語った。

通信使来聘400年の記念イベントが開かれている高麗美術館

 「第1点として朝鮮通信使は豊臣秀吉の無謀な朝鮮侵略の戦後処理として始まった。しかし、第2次世界大戦から62年経った今でも、わが国は隣国との関係において十分な戦後処理を行っていない」

 「第2点は、江戸時代は鎖国の時代だったという誤った歴史観が根づいているが、1607年〜1811年までの204年間、12回に及ぶ通信使の来聘は、江戸時代の日朝関係を多彩にしたばかりか、日朝の友好往来に画期的な成果をもたらした。また、この時代、琉球とも外交関係を開き、通商は中国、オランダと活発に行われた」

 「第3点は、第7次の使節団から歓迎の渦には幕府・各藩、知識人のみならず、多数の民衆が参加したことが特徴的である。これこそ『民際』のあるべき姿であった。国と国との交流は政府の代表者が進めるために、『国益』の制約と限界がつきまとう。しかし、『民際』は権力者が交代しても続く。幕府が通信使とのふれあいを禁じても、民衆はそれを乗り越えて、交流のすそ野を広げていった」

不戦と対等な外交

滋賀県高月町から来た「雨森サムルノリ」のもよう

 つづいて、仲尾氏が発言し「400年前の国交回復のプロセスは、今日の朝鮮、韓国との関係について考える良い機会になるだろう」と指摘した。

 そして、通信使は日朝両国の間に不戦と対等な外交関係を築こうとした外交使節であったと指摘したうえで次のように述べた。

 「秀吉の侵略によって、平壌やソウルは壊滅的被害を受け、朝鮮農村は荒廃し、人口は減少、餓死者が続出した。05年京都の伏見城で、朝鮮王朝によって日本に派遣された『探賊使』松雲大師惟政と会見した徳川家康が、うらみはない、再び出兵しないと述べた。天下を手にした家康は朝鮮との国交回復と平和外交が不可欠だと考えた。そして、対馬の努力により朝鮮人俘虜の送還や王陵を暴いた犯人の縛送、そして謝罪国書の送達などの条件をクリアし、国交の回復に努力して実現した。こうした、戦後処理における400年前の知恵をわれわれは現在の日朝関係において学ぶべきではないか」

満員の聴衆が上田、仲尾両氏の話に聞き入った

 さらに、上田氏は第8次、第9次の真文役として活躍した外交家、思想家、教育者であった雨森芳洲(1668〜1755)と、1968年の秋に、滋賀県高月町の雨森で、雨森芳洲の名著「交隣提醒」などと出会って、芳洲がすぐれた思想家であり、日朝友好の先駆的な実践者であることを実感して大きく感動したと振り返り、次のように指摘した。

 「芳洲はその著『交隣提醒』でも力説した『誠信と申し候は実意と申す事にて、互に欺かず争はず、真実を以て交り候』の『誠信』の至言は、近代、現代における日本と朝鮮のゆがみを照射してやまない。東アジアのなかの日本のありようを思索し実践した芳洲は、朝鮮語、中国語にも精通して、学問と実践を止揚、統一した対馬の藩儒であって、朝鮮の政治、経済、文化を実地に学び、それを生活と外交に体現した。そして、秀吉の朝鮮侵略を『無名之師』と論破した優れた国際人であった」

辛基秀さんの役割

 一方、仲尾氏は、朝鮮通信使の研究において大きな役割を果たした在日映像作家・故辛基秀氏について触れ、「全国各地の朝鮮通信使ゆかりの地を探訪して、つぎつぎに注目すべき資料を発掘し、通信使の調査と研究に画期をもたらした」と高く評価。「辛基秀氏さんの製作された『江戸時代の朝鮮通信使』には、朝鮮通信使がもたらしたおびただしい文化遺産によって、日本民衆もまた強烈な刺激を得て、さまざまな朝鮮文化を受容し、またわが町、わが村に伝えていた痕跡が鮮やかに刻印されている」と述べた。

 上田氏も「すでにしてあった善隣のきずなを断ち切ったのは誰か、現実に存在した友好の日朝関係をゆがめ、朝鮮史像や朝鮮観を歪曲したものは何か、ENDマークのないこの映画が、静かにそして、鮮やかに語りかけている」と訴えた。対談のあと、この映画が上映された。(朴日粉記者)

[朝鮮新報 2007.5.7]