top_rogo.gif (16396 bytes)

〈生涯現役〉 「ウリ植物名の由来」を刊行−玄正善さん

 「60年を超える分断の影響で、南北それぞれの植物図鑑をめくると、植物名や分類の仕方も少しずつ異なっている。一日も早く統一を実現しなければ…」

 このほど580種4000語を網羅した「ウリ植物名の由来」を刊行させホッと一息ついた玄正善さん(80)。5年前の「植物辞典」の出版につぐもので、北と南の学会はもとより、日本の植物学者らからも大きな反響が起きている。

 ページをめくると、植物名が、学術名、朝鮮語、中国語、英語で表記された後、それぞれの由来がていねいに記されていて、おもしろい読み物になっている。例えば、燃鰍鉢は、日本語で「マンサク」。この花の語源は「豊年万作」で、朝鮮半島が「豊年」をとり、日本が「万作」を取ったという。ウソのようなホントの話なのである。たかが「辞典」と言うことなかれ、古今東西の文化、古典に対する深い造詣と、サンスクリット語にまで遡り語源や由来を明らかにしている深奥な書なのである。それぞれの植物の説明には、はるか昔の古代インドから朝鮮半島、日本に至る深い交流の足跡が綴られている。

ケイトウの赤い花

著書の出版パーティーでスピーチする玄さん

 玄さんは、解放前、済州島の農業学校に通っていた。故郷への愛着は、そこで咲いていた草花の記憶に結びつく。「ケイトウの赤い色が私にとっての故郷の原風景。私たちの世代にはその色や香り、風の流れまで、胸の奥に刻まれている。しかし、次の世代にはそれがない。彼らに植物への興味を持ってもらうためには、朝鮮語からも日本語からもアプローチできる辞典が必要だと思った」。

 穏やかな表情で語る玄さんだが、その半生は波乱に満ちている。1927年、済州島済州郡朝天面で生まれ、17歳で解放を迎えた。済州農業学校2年生の多感な青春時代。時代は風雲急を告げ、日帝統治は幕を下ろしたが、代わって米帝国主義の魔手が朝鮮民族の頭上を覆い始めていた。

 「米軍政当初は、あまりにも悲惨だった日本の支配が終わった喜びで、彼らを『歓迎』したものだった。しかし、それは長く続かず、日帝以上の抑圧者として本性を露わにしてきた」

たくさんの人が玄さんを祝った

 「ただ勉強しているわけにはいかない」。玄さんたち学生はついにペンを置いて教室の外に飛び出し、果敢な反米闘争に立ち上がった。同盟休学運動が起こり、46年から47年にかけて日増しに運動は激化していった。そんな中、玄さんも学友たちと反米ビラを配っていて検挙され、済州警察署に15日間拘留された。

 島では米軍政の指揮下で、親日反共分子が跋扈し、愛国者たちへの監視、脅迫、弾圧が続き、息の詰まるような緊張感に包まれていた。命の危険を感じた玄さんは47年7月、ひそかに伝馬船に乗って、島を脱出し、大阪に逃れた。学友13人も日本へ逃れたが、現在も存命なのは、玄さんただ一人だという。そして48年4月3日、運命の日。島の人々は、米軍政とその手先らによって「パルゲンイ」の烙印を押され、「皆殺し」に遭う悲劇に見舞われたのだ。玄さんの家族、親せき、友人たちの多くも犠牲になった。

読むべき万巻の書

 大阪から東京・荒川区三河島に移ったのは、50年。翌年苦学しながら日本大学に入り、応用化学を学んだ。「李升基博士にあこがれていたからね」と照れる。ニコヨンと呼ばれる社会の底辺のあらゆる仕事も体験。「上野公園の不忍の池の復興やサクラの植え直しもやったよ」とふり返る。60年代には、実姉はじめ11世帯の親せきが北へと帰国した。

 その後、プラスチック業、金融業、遊技業などを営み、暮らしも安定していった。3男1女に恵まれ、仕事も家庭も順風満帆の人生。そんな中でハタと思い出したのが、昔、故郷で触れた植物のこと。そして、それを次の世代に伝えていく責務がある、という思いだった。前書も本書も原稿、校正、出版、発送まですべて自力。ぼう大な作業の過程で、腱鞘炎にも悩まされた。また、東京中高や東京第1初中教育会の教員や職員らが手伝ってくれたこともうれしかった。

 さらに日本のある植物研究者からは「私の住んでいる観音崎灯台あたりにも見られる数多くの植物が貴国にも見られるのですね。地理的にもつながりが深いことを学びました。調べることは山のようにあり、読むべき万巻の書がありますね。…先生のすばらしい研究、ページを開きながら額に汗が出たり楽しくうれしくなりました」との手紙が届いた。

 また、ある同胞女性からは「この本は何にも代えがたい宝物。こんなすばらしい本を書かれた先生は、わが同胞社会の誇りです」との感想文が寄せられた。

 こんな励ましの声を糧に「今後は残りの500種を収録した植物図鑑の出版を急ぎたい」と意欲満々の表情で語った。(朴日粉記者)

[朝鮮新報 2007.5.12]