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〈本の紹介〉 日本人と戦争責任

「自分の自分に対する責任」を

 安倍政権は憲法改正を最大の公約として掲げている。突き詰めて言うなら「戦争の放棄」と「戦力の保持禁止」を明確にしている9条、とりわけ後者の9条2項を削除することにある。

 普通の国として軍隊を持ち、自衛という名の戦争に備え、いったん戦端が開かれれば米国とその同盟国軍によるイラク侵攻のようにミサイルを撃ち込み、爆撃を行い、兵士を送り込んで戦闘を行える態勢を整えるということだ。

 侵略戦争、植民地支配の過去を清算しないまま、堂々と軍隊を保持し戦争をする態勢を取ろうとする日本の今の姿は、甚大な侵略の被害を被り、「従軍慰安婦」被害者たちのようにその傷跡がまだ癒されていない国、地域の人間にとっては当然ながら、甘受できるものではない。

 さらには、そのために世論を欺き「脅威作り」のために「北朝鮮の拉致事件」を騒ぎナショナリズムを煽る。かつて、侵略戦争の正当性を植え付け、事の本質が正視できぬよう世論を欺いた手法そのままである。

 敗戦から半世紀以上も過ぎたにも関わらず、日本はなぜ過去の清算をしないまま、また戦争への道をふたたび歩もうとするのか−ちょっと問題提起をすれば誰もがはっとわれに返って疑問に思うだろう、その根幹の部分を2人の識者の対談を通じて解き明かそうとするのが本書のテーマである。

 しかし、文字通りの対談ではない。太平洋戦争当時、「不沈戦艦」だと日本が豪語した戦艦武蔵(かの大和の兄弟艦)の乗員として九死に一生をえ、戦後は日本戦没学生記念会(わだつみ会)の事務局長を務めた渡辺清氏の「問題提起を受けて、その息子に当たる世代の2人−斎藤貴男氏(ジャーナリスト)と森達也氏(映画監督)が語り合ったものである」(はじめに)。

 戦艦武蔵における自身の過酷な体験を描いた小説「海の城」「戦艦武蔵の最後」(いずれも朝日選書)、「私の天皇観」(辺境社)など多数の著書を遺した渡辺氏の「問題提起」とは、具体的に指定されたものはない。

 ただ「私の天皇観」所収の論考から本書に収録された「再び裏切られた『戦後』」「戦艦武蔵とともに海底で眠る友へ」「なぜ『海の城』『戦艦武蔵の最期』「砕かれた神」を書いたのか」の3篇に貫かれた著者のテーマがそれに当たるのだと思う。

 その「問題提起」を一言で言い当てることは困難だが、例えば15歳で「天皇のために死のう」と海軍に志願し、多くの戦友の惨い死に直面しながら敗戦を迎えてみると「敗戦の責任をとって自決するどころか…敵の司令官と握手し…『マッカーサーがチョコレートをくれたよ』などと喜んで」いる「厚顔無恥、なんというぬけぬけとした晏如たる居直りであろう」と怒り「僕は天皇に裏切られた」ものの、「裏切られたのは正に天皇を…信じていた自分自身に対してである」「僕には戦争に対する政治的、刑事的責任はない。だが、自分の自分に対する責任からは決して自由ではない」という結論部分がそれなのだろう。

 渡辺氏の研ぎ澄ました指摘を受けて斎藤、森の両氏は戦中派の体験、天皇制、憲法、靖国、経済界の戦争観と教育観、日の丸・君が代、戦争など幅広い分野から論議を交わす。

 そして、「贖罪意識」「後ろめたさ」を持つことの大切さ、肌の色や言葉が違っても人間は同じ体温を持っているんだという、ごく当たり前のことを当たり前のように感じ取ることが戦争や平和について敏感になれる感覚ではないか、とまとめている。

 70年安保世代にとっては身近な存在の渡辺清氏だが、その論考は今なお新鮮だ。怠惰な思考を吹き飛ばしてくれる。(斎藤貴男・森達也著、高文研発行、1700円+税)(厳正彦記者)

[朝鮮新報 2007.5.15]