琴秉洞著「告発 従軍慰安婦」を読む 西野瑠美子 |
真実と正義の希求なき和解はない 1990年に韓国の「慰安婦」被害者金学順さんが名乗り出てから、17年という長い歳月が流れた。金さんは名乗り出た時に「私は民間業者に連れ歩かれたのではない。日本軍により駐屯地に連れて行かれ、動物以下の生活を強いられた。生きた証人がここにいる」と訴えられたが、その言葉は今も忘れられない。その後、金さんに続いてアジア各地から被害女性たちが名乗り出たが、よもや17年を経てもなお、日本の首相により「強制的に集めて管理した証拠はない」「官憲が家に押し入って人さらいのごとく連れて行くという強制性はなかった」などという発言が飛び出すとは、当時、誰が想像することができたろう。 泥靴で蹴散らす行為 本著でも紹介されているように、この十数年で発見された資料や積み上げられた調査、研究は枚挙に暇がない。日本軍が慰安所設置を発案し、慰安所の設置を指示し、「慰安婦」の徴集を統制し、アジア各地の慰安所に「慰安婦」を移送し、慰安所経営を指揮、監督したことは否定しようがない。しかし安倍首相は、こうした調査、研究を、そして血を吐くようにして語った被害女性たちの証言を、まるで泥靴で蹴散らかすかのように切り捨てた。 本著の第9章で取り上げられている中国雲南省拉孟の「慰安婦」については、私も数年かけて調査を行い、写真のお腹の大きな朝鮮人「慰安婦」が朝鮮民主主義人民共和国の朴永心さんであることを確認し、3年前に彼女と共に現地に調査に出かけた。 口封じ誰にもできぬ
朴さんが最初に連行されたのは南京市内にある「キンスイ楼」という陸軍の慰安所だったが、南京でその建物を見つけ、かつて入れられていた2階の「19号室」に足を踏み入れた時、朴さんは立っていることができずに床に崩れ落ちた。そして、「なぜ、私がこんなところに入れられ、慰安婦にされなければならなかったのか!」と、床を叩いて号泣した。あの日の朴さんの絶叫に似た嗚咽は、今も私の耳に鳴り響いている。いかなる権力を持っても、いかなる詭弁をもっても、誰も被害者の口を封じることも、この歴史を消し去ることもできない。 日本政府に「明確で曖昧でない謝罪」を求めるアメリカ下院決議を提出したマイク・ホンダ議員は、私のインタビューに対してこう話した。「一番大切なのは被害者の癒しです。決議に明記した謝罪が、長い間正義を得られずに苦しんできた被害者を癒すことができると、私は信じています。決議案は日本に恥をかかせるためのものではありません。その蛮行に苦しみ耐えて生き抜いてきた女性たちの正義を取り戻すことが目的なのです」と。 17年前、60代だった被害者たちは80代になり、「生きているうちに正義の実現を!」と訴えてきた女性たちも、かつてのように日本に来て自らの体験を証言することも体力的に難しくなった。被害女性たちに残された時間は少ない。それは、日本がこの重大な犯罪の責任を果たす時間も限られているということなのだ。 和解は、被害者にとって必要な癒しのプロセスである。しかし、真実と正義の希求なき和解はない。本著から、そんなメッセージが聞こえてくる。(同時代社、1500円+税、TEL 03・3261・3149)(フリージャーナリスト、「戦争と女性への暴力」日本ネットワーク共同代表) [朝鮮新報 2007.6.2] |