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〈朝鮮通信使来聘400年−6−〉 江戸の学問と政治理念 

文武忠孝を励し、礼儀を正す

林羅山の銅像(岐阜県益田郡下呂町)

 「日本の武士は、戦国時代では『切り取り強盗は武士の習い』という言葉のとおり、文化や道徳とは縁遠い野蛮人であった」(「漢文の素養」加藤徹)

 天下を平定した徳川家康は、武力に代わる政治理念、朱子学を導入し、政権を半永久的に維持しようとした。

 江戸朱子学を成立させた学者は藤原惺窩である。

 彼は、藤堂高虎水軍の捕虜となった儒者、姜と出会い、儒者として出発する。

 徳川家康は惺窩の高弟、林羅山を召し抱える。幕府の政治に儒者が参画した新しい歴史の出発である。

 家康は、羅山に儒教の私塾建設のために広大な土地と200両を下賜する。

昌平坂(湯島)聖堂

 綱吉は林信篤に大学頭の称号を名乗らせ、私塾を湯島聖堂と改め、朱子学を官学とする。そして綱吉は朱子学を法律によって国の理念とした。

 お犬様将軍として有名な綱吉は「武家諸法度」(1685年)の第一条を「文武弓馬の道を専ら相嗜むべき事」を「文武忠孝を励し、礼儀を正すべき事」と改めた。

 忠孝、礼儀とは儒教の根本理念(三綱五倫)である。

 吉宗の時代に入り「武家諸法度」は、儒教理念としてより確固としたものになり、吉宗は清国の「六輪衍義大意」などを出版し、父母に孝行、長上を敬う、子孫を教訓することを広めた。

藤原惺窩

 江戸幕府は、武断から文治に、徳治の政治に大きく変化していった。

 江戸朱子学に朝鮮朱子学は、決定的な影響を与えている。

 ・江戸朱子学の成立時の姜、通信使の来日による直接交流。

 ・朝鮮を代表する李退渓の著書をはじめとして、数多くの朝鮮の出版。

 ・徳川家康に始まる朝鮮文庫(図書館)の設置。

 ・有能な国家官僚を育成するために、朝鮮の科挙の制度に学んだ「学問吟味」(国家試験制度)の実施。

 ・江戸城に於ける林羅山の家康進講、綱吉の親講、吉宗の御前講釈などで朱子学を江戸政治の中心に位置付ける学問行事。

姜 

 ・1790年、朱子学を正学とする法律を出し、他の学派を禁止する「實政異学の禁」の発表。

 江戸・日本の儒教化は、朝鮮の外交や貿易の交流に止まらず、政治理念の共有に繋がるもので、東アジアの安定と交流のイデオロギーを共にしたことを意味する。

 「日本は清に朝貢しなかったから自由な発展が可能であった」などの後出しジャンケンの主張は全く歴史を知らないか、知らぬふりをするものである。

 江戸幕府と官学の学者たちは、朝鮮通信使たちとの学問交流に非常に熱心であった。

 大学頭の林家一門の学者、木下順庵の高弟の新井白石、雨森芳洲、室鳩巣など、貝原益軒、伊藤仁斎など、日本史の教科書に登場する一派の学者たちが通信使との交流に参加している。

 大学頭林復斎は、「通行一監」の中で、通信使との筆談唱和を書冊にしたものが百数十巻になると記している。

 筆談唱和で有名なのが、新井白石と通信使正使平泉の「江閑筆談」である。

 筆談の後白石は、芳洲に送った手紙の中で、通信使との別れを悲しみ「涙が泉のようにほとばしった。…かの人たちの残した話は、わが国民として誰でもみな喜ぶ話題であった」と書いた。

 「戦国時代まで野蛮だった武士は、江戸時代の漢文ブームによって、朝鮮や中国の士大夫階級と渡り合える文化的教養人になった」(加藤徹前揚書)

 著名な実学者、丁茶山は貝原益軒、伊藤仁斎等を高く評価している。(金宗鎭・社協東海支部会長)

[朝鮮新報 2007.6.8]