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くらしの周辺−街で耳にしたウリマル

 本屋に立ち寄った際に、「競争やめたら学力世界一〜フィンランド教育の成功」という本を見つけた。内容豊富だが、中でも「国際学力調査結果」の分析は興味深く、「百マス計算」などの単純な計算にはめっぽう強いが、無回答率(わからない問題は手を出さない)も高い日本、わからなくてもとにかく答える米国など、なんだか「国民性」的なものが反映されている。ともかく、フィンランドの「学力世界一」は思考力を十分に養う教育にあるようだ。学ぶ力と書く「学力」とは、単純に未来に対応するための知識を詰め込む事ではないといったところか。

 話は変わるが、7〜8年前に静岡の清水(旧清水市)に行ったこと事があった。一般的には「次郎長」が連想されるかもしれないが、朝鮮人である私にとっては「金嬉老事件」である。妙に感慨にふけり、街を歩き回って駅前のバス待合室のベンチに腰を下ろした。ふと横を見るとウリハッキョの児童らしき2人が座っていた。同胞数が多くない静岡で、ウリ学生に出会い、「隣のお兄さんも朝鮮人なんだよ!」と心の中で連呼した事を覚えている。初級部高学年くらいの女の子と低学年の男の子。どうやら兄弟のようだ。ウリマル交じりの会話を交わしながら、弟の宿題を手伝っていた。大学で留学同に出会うまでウリマルにほとんど触れたことがなかった私には、ウリマルを理解し学んでいる初級部学生の姿は、どんな国のどんな立派なシステムの教育よりも羨ましく映ったことを覚えている。

 多かれ少なかれ、日本の教育事情の影響を受ける民族教育ではあるが、しっかりと「学ぶ」を見極めたい。(金範重、法人職員)

[朝鮮新報 2007.6.9]