日本科学史学会に参加して 任正爀 |
戦争中原爆開発計画を推進していた「世界唯一の被爆国」 5月26、27の両日、京都産業大学で開催された日本科学史学会に参加した。日本科学史学会は文字通りあらゆる分野の研究が行われているが、朝鮮に関する研究はすくない。そこで、筆者は朝鮮と関連する発表を心がけてきたが、今回は「植民地朝鮮における日本の研究機関による放射性鉱物の探査について」という表題で発表を行った。
日本では、しばしば「世界唯一の被爆国」という点が強調されるが、他方、第2次世界大戦中に原爆開発計画を推進させていた歴史的事実がある。1943年日本陸軍は東京の理化学研究所の物理学者仁科芳雄に研究を委託したが、それは彼の頭文字から「二号研究」と呼ばれた。仁科研究室では原爆の理論的研究とともに、熱拡散法によるウラン濃縮の実験を行うが、一方でその原料となるウラン鉱物の探査が同じ理研の飯盛研究室で行われた。そして、彼らがもっとも有望視した産地が朝鮮黄海道の菊根鉱山であった。その開発の実態について関係者の断片的な証言は得られていたが(例えば、読売新聞社編「昭和史の天皇4」)、本格的研究は行われていなかった。さらに、当時、朝鮮総督府地質調査所が朝鮮全域における稀元素鉱物の探査を行っており、また41年に新設された京城帝大理工学部でも軍事研究を活発に行っていた。それらと「二号研究」とは関係がなかったのか、という点も気になる。 このような問題意識から、去年の学会ではそれら日本の研究機関の活動について報告したのだが、今回は国会図書館所蔵GHQ返還文書によってその検証を行った。それによって、これまでほとんど語られることのなかった菊根鉱山のウラン含有フェルグソン石の採掘とともに、それを主管した理研朝鮮出張所の役割とほかの研究機関の対応が明らかになった。また、このGHQ文書には解放直後の朝鮮の教育、科学事情に関する報告もあり、それらについてもいずれ詳しく検討したいと考えている。 朝鮮科学史研究に込められた統一の願い
さて、今回の学会の特筆すべきことは、朝鮮科学史研究の大御所的存在である全相運先生の記念講演「東アジア科学史の研究−ソウルと京都」が行われたことである。朝鮮科学史研究は44年に日本の三省堂から出版された洪以燮「朝鮮科学史」に始まるが、それが本格化するのは66年に出版された先生の「韓国科学技術史」によってである。この本は70年代に英語版、日本語も出版され世界に朝鮮科学史の内容を紹介するうえで大きな役割を果たした。さらに、2000年には新たな問題提起を多数提示した「韓国科学史」を刊行、先生の研究意欲は衰えることがない。 全相運先生と日本科学史学会との縁は古く、とくに68年以降、中国科学史研究の中心人物であった薮内清博士と親交を深め、京都人文研におけるグループの一員として、東アジア科学史における朝鮮科学史の重要性を強く印象づける。「韓国科学技術史研究」日本語版は、その成果である京大博士論文がもとになっている。先生が初めて来日された時、アパートを貸してもらえなかったそうである。それから約40年、昨今の「韓流ブーム」に見られるように日韓を取り巻く状況も大きく変わった。その間のソウルと京都における研究経験について、さまざまなエピソードを交えながらの講演は聴取者に大きな感銘を与え、講演が終わってもしばらく拍手が鳴り止まなかった。 筆者が全相運先生と会うのも今回が3度目であるが、先生の出身が江原道高城でロシア語を熱心に学び金日成総合大への進学を志望していた話を初めて聞くことができた。ところが、朝鮮戦争の混乱のなか南での生活を余儀なくされ、その後、ソウル大で学び朝鮮科学史の研究に没頭することになる。ゆえに、先生は「北韓」という用語をできるだけ使わないようにしているという。先生の精力的な朝鮮科学史研究の根底には、分断された祖国に対する熱い想いがあったのである。その想いにふれて、筆者にとっても忘れがたい学会となった。(朝鮮大学校理工学部教授、科協中央研究部長) [朝鮮新報 2007.6.18] |