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〈遥かなる高麗への旅 朝鮮史上初の統一国家A 太祖 王建〉 朝鮮の戦国、後三国時代を制す

高句麗を継承、渤海遺民を受容

 918年6月15日、太祖王建は鉄原(江原道・38度線の南)弓裔の故宮・布政殿で王位に付き高句麗を継承する意味で国号を「高麗」とし、年号を「天授」と定めた。

1000年の時を経て今も大切に保存されている王建陵

 新羅は29代武烈王(603〜661年)から約200年太平をむさぼったが、貴族たちの党争や退廃などで政治が乱れ、さらに飢饉で民が飢えて巷では盗賊が跋扈するようになった。その隙に乗じて甄萱が全羅道一帯を掌握し892年完山(全州)を都に定め王を称して後百済を建国した。一方、弓裔は901年鉄原に都を定め国号を「泰封」(905年)と称した。落日の新羅と三国が鼎立するようになり、王建による三国統一(936年)までの約50年間、歴史上稀な戦国時代・後三国時代が続いた。

朝鮮半島の文化の中心地に

 王建の父・王隆は松嶽郡の沙粲(官名)であったが、中国大陸への横断が有利な江華島一帯の地域を占めていたので中国や海外の事情に明るかった。王隆は開城の北を流れる礼成江、黄海道、京畿道沿岸地域の海上権を掌握した豪族でもあった。王隆は19歳になった王建を連れて弓裔に帰属すると弓裔は大いに喜び王隆には「金城太宇」という位を授け、王建には松嶽に城を築くように命じた。この城が勃禦槧城で王建はその城主になった。その時王建20歳。王建は戦場を駆け巡りながら勇猛な部将として成長する一方、水軍を率いては錦城(羅州)一帯の攻略に成功、海上勢力の面目をほどこした。続いて漢江、臨津江流域をはじめ、水軍基地のあった珍島を抑え後百済の背後を圧迫し海軍大将に就いた。王建は弓裔の信頼を一身に受け侍中(今の首相)にまで出世する。

王建を守る8体の智臣像

 弓裔は国の中央集権制を急ぐあまり非情な独断に走り、諫言するものは容赦なく処断し、夫人とその二人の息子まで殺してしまう。このような弓裔の暴政に業を煮やした側近武将たちが政変を起こし弓裔を追放し王建を王に推戴した(918年)。高麗建国後、弓裔に近い勢力の一掃に手を焼いた王建は即位して半年後には松嶽(開城)に都を移した。松嶽は王建の生まれ育った故郷であり縁故地でもあったからだ。これにより朝鮮半島の文化の中心地も慶州から開城に移るようになった。

高句麗の故地の回復に全力注ぐ

王建の肖像

 907年、中国大陸では唐が滅亡、戦乱が吹き荒れた。王建は三国の統一と高句麗の故地の回復に政治の目標をおいた。

 王建は、契丹に滅ぼされた渤海の遺民たちを快く迎え入れ厚くもてなした。

 後百済甄萱の嫡子・神剣が935年に政変を起こし、甄萱を金山寺に幽閉すると甄萱は王建に投降するが、この時も王建は甄萱を尚父と仰ぎ厚く待遇した。これに続いて孤立無援の新羅敬順王も戦いを避け高麗に降伏し、千年守り抜いてきた新羅の時代に幕を閉じた。王建は翌936年2月、10万の大軍で後百済・神剣を滅ぼしついに統一偉業を達成した。三国の統一は、国の分裂に終止符を打ち統一を願う萬百姓の願いであった。新羅の統一が外国の唐の力を借りたものとするならば、高麗の統一は民族和合次元の自主的な民族統一であった。

 王建は政権の基盤を強化するため豪族の懐柔と連合に力を注ぎ、豪族の娘たち29人を王妃として娶り外戚に取り入れた。豪族に王氏姓を与え、地方官に任命する一方、豪族の子どもを人質とした。王建は遺訓として仏教の振興をはじめとする10カ条の「訓要十条」を子孫に遺し、943年5月、67歳で永眠した。

 王建の墳墓である王建陵は1000年を過ぎた今も開城にある。朝鮮半島における最初の統一国家高麗を打ち立てた王建の輝かしい業績を後世に伝えるため、金日成主席の指導でより立派になって大切に保存されている。現在では開城の観光名所のひとつである。(文=洪南基、写真=文光善記者)

[朝鮮新報 2007.6.22]