〈人物で見る朝鮮科学史−33〉 高麗の科学文化(6) |
綿の栽培で功績挙げた文益漸
14世紀まで朝鮮の衣服の主流は麻であったが、保温性の優れた綿によって衣服革命をもたらした人、それが文益漸である。1329年に貧しい両班の家に生まれた文益漸は、農業に従事していた父・文淑宣から学問を学び、32歳の時に科挙(官吏登用試験)に及第し文官の道を歩み始めた。そして、1363年に元への使臣の一人に抜擢されるのであるが、これが彼の運命を大きく変えることになる。 当時、高麗の恭愍王は独自路線を歩み親元勢力を排除していた。そこで、元では恭愍王の叔父に当たる徳興君を王に押し立てようとしたのだが、その争いに文益漸も巻き込まれたのである。一説によれば、その加担を拒んだ文益漸は中国雲南地方に送られ、そこで初めて綿花を見たという。というのも、綿の原産地はインドで地理的に近い雲南では綿の栽培が盛んに行われていたからである。そして、その種を持ち帰ることを決心するが、それは厳しく禁じられており、種を筆の筒に隠したという有名なエピソードが生まれた。ところが帰国した文益漸は、今度は高麗政府からその策略に加担したことを疑われ、官職を解かれて故郷に戻る。実際に文益漸が雲南地方に送られたかどうかは定かではないが、帰国した年に故郷の地で舅である鄭天益と綿の栽培を始めたことから、後半の話は事実に近いようである。
さて、文益漸が命をかけて持ち込んだ種は10粒ほどで、それぞれ異なった土壌に植えるが、何とか一つだけが花を咲かせ100粒ほどの種を得た。それをさらに増やして3年後には村人たちに種を分け与え栽培地を徐々に広げていく。収穫した綿の花は種を採ったあとに乾燥させ、そこから糸を紡ぐのであるが、偶然通りがかった胡僧・弘願が綿花の畑を見て故郷のようだと懐かしみ、文益漸らにその方法を伝授したという話が伝わっている。その後、綿の栽培は全国に広がり、15世紀以降は日本にも輸出されるようになった。日本語の「もめん」が木綿=モクミョンに由来するのは周知の事実である。 綿の栽培で大きな功績を挙げた文益漸は再び中央の官職に就くが、時は高麗末期、土地私有制の問題で大論争が起こっていた。この時、不満を募らせた新興勢力が後に朝鮮王朝を成立させることになるが、文益漸はそこには深入りせず、またも追放されるように故郷に戻り、1398年にこの世を去る。彼は、国家の役に立てず、学問にも没頭できず、自分の人格のいたらなさを憂いて、自身を「三憂居士」と号した。彼の人となりを示すエピソードである。 文益漸の詩文と事績を集めた「三憂堂実記」が現在までも伝わり、彼が最初に栽培を行った慶尚南道山清郡丹城面沙月里のその地は史跡に指定されている。(任正爀、朝鮮大学校理工学部教授、科協中央研究部長) [朝鮮新報 2007.6.23] |