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〈遥かなる高麗への旅 朝鮮史上初の統一国家B 大覚国師 義天〉 海東天文宗を創始、一大隆盛期に

仏教を基層に精神生活、豊潤な高麗文化花開く

 太祖王建は、子孫に統治理念と方向をしめした「訓要十条」の最初の項目に「我々の国家大業は必ず諸仏のご加護によるもの」であるとし、仏教を国家的宗教として位置づけた。また、風水思想を体した道禅師の指示に従って建てた寺院のほかには勝手に寺院を建ててはいけない(2条)、八関会、燃燈会のような仏事はその主旨を逸脱してはならない(6条)など仏教の振興と戒めを言い遺した。

護国、王室の庇護の下で繁栄築く

 4世紀に朝鮮半島に伝来した仏教は古代信仰と融和しながら三国の最高の文化、思想、宗教として受け入れられてきた。

 三国時代の王室では仏教を国教として受け入れてきた。その伝統を引き継いだ高麗時代の仏教の特徴はひとことで言うと「祈福攘災 鎭護国家」(災いをはらい、福を祈る。乱を鎮め、国を護る)で「祈攘」の二文字で表すことができる。

05年に復元された義天ゆかりの霊通寺と石塔

大覚国師・義天の肖像

 高麗時代、4代広宗の時代に科挙制度が導入されると僧侶の科挙である僧科も実施された。息子の多い家では一子を出家させる制度もあった。

 王室も例外ではなく太祖の第6王子證通、文宗の第4王子煦(大覚国師)、肅宗の第5王子澄儼、仁宗の第4王子沖曦、明宗の7人の王子、煕宗の2人の王子をはじめとして大勢の王子たちが出家した。

霊通寺みごとに復元、大正大学と共同発掘

大覚国師碑

 高麗仏教の双璧は、天台宗を開立した義天(1055〜1101)と曹渓宗(禅宗)中興の祖・普照国師知訥(1158〜1210)である。

 開城には大覚国師・義天ゆかりの五冠山・霊通寺がある。義天は11代文宗(1046〜1083)の第4王子として生まれたが、11歳で出家して霊通寺の王師・欄圓(景徳国師)の下で得度した。

 義天は、高麗から中国に渡り中国天台宗16世に就き宋の天台仏教に貢献した義通(927〜988)の4代目の法孫に当たる。父の文宗が逝き、兄の宣宗(1084〜1095)が王位に就いた1085年、金泥で書いた華厳経300巻と数千両の銀を持って宋の杭州に赴き、高徳碩学50余人を訪ね、教えを受けたが安否を気遣う母(仁譽太后)の強い要請で14カ月ぶりに帰国の途についた。帰国に際し義天は章疏(仏教の解説書)3000巻を持ち帰り、海印寺に華厳経閣を立てて、仏教を伝えたことは有名である。義天帰国後、教蔵都監が設置され、宋、遼、日本などから4000巻の外国書籍を集めたことも特筆に値しよう。

 義天は、興王寺住持として弟子を教える傍ら蒐集した仏典の目録「新編諸宗教蔵總録」「海東有本現行録」を刊行した。義天は海印寺で修養し、兄の肅宗(1096〜1105)が即位すると興王寺に戻った。

 肅宗2年(1097年)国清寺が落成すると第一世住持になり天台教学を講じ1000人を超える学僧を指導した。ここに(海東)天台宗が一宗派として成立したのである。その結果、九山禅門の有能な僧侶や華厳宗の僧侶達も義天の天台教観の講義を聴きに集まるようになり天台宗は一大隆盛期を迎えた。

普光院の前に立つ憧竿支柱

 一方、「鋳銭疏」を上奏文として国王に進言し国で銅銭を鋳造して、貨幣を積極的に用いる利を解くなど経済の発展にも寄与した。義天は肅宗6年(1101年)47歳で世を去ったが諡号(死後に送られる称号)は大覚国師である。

 義天の門下からは徳麟、教雄など大勢の高僧が排出された。義天は開城、五冠山の麓で荼毘に付された後、霊通寺の東北に埋葬された。

 開城の東北、龍興洞の山奥五冠山の霊峰をのぞむ霊通寺跡には三基の石塔、幢竿支柱(旗をかかげる支柱)、大覚国師の墓所と碑が立っていて、重厚な歴史を語る寺院跡が鬱蒼と茂る森林の中に残されていた。

 霊通寺は朝鮮社会科学院考古学研究所と大正大学の8年に亘る共同発掘調査の後、05年10月に昔の姿に復元された。

 最近は朝鮮学校の修学旅行でも訪れる開城の名所のひとつである。(洪南基、写真=文光善記者)

[朝鮮新報 2007.6.25]