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〈遥かなる高麗への旅 朝鮮史上初の統一国家C 成均館(高麗博物館)〉 儒教の最高教育機関、新進官僚を多数輩出

千年の歴史、世界最古の大学

 開城を代表する古い建物は成均館である。成均館は高麗11代文宗(1046〜1083)が別宮に建てたものだが、1089年に最高儒教教育機関である「国子監」(大学に相当)がこの場所に移り、1310年に「成均館」と名前を変えた。朝鮮王朝時代、漢陽(ソウル)に成均館が建てられ、地方校の郷校に降格したが開城ではそのまま成均館と呼んできた。世界で最古の大学がドイツのハイデルベルグ大学(1386年創立)で600年の歴史がある。それより約400年前に「国子監」という教育機関をつくり、人材を育成してきたということは民族史の中でも特筆されることだ。

外交、行政能力重視した科挙

 王建の「訓要十条」にあるように高麗はその全時代を通じて仏教を厚く庇護したがその弊害も少なくはなかった。992年開京に「国子監」を設置し、地方に郷校を設置して儒教を普及したのは6代王成宗(982〜997)。崔到遠の子孫・崔承老は成宗に28条からなる儒教の振興策を進言し、初めて国を治める学問としての地位を確立した。

7万uの敷地には高麗時代の貴重な文化財が数多く保存、展示さている 約1000年の歴史を誇る成均館。現在は高麗博物館となっている

 仏教は修身の学問、哲学としてその伝統と地位を守り、儒教は治国の学問、即ち政治理念として受け入れられるようになった。三国時代にも新羅では儒教を奨励する政策を取り、新羅最大の文人とされた崔到遠や崔承祐などのように唐の科挙に及第(合格)して唐の官職に就く者もでたが、王族と中央貴族の地位が不動であったため儒教はそれ以上取り入れられなかった。

 高麗4代王・光宗は中央集権制を強化するため科挙制度を導入し、官吏選抜において儒教の素養を重視した。科挙の導入は既存勢力に対抗する新進士大夫達の登場に繋がる。儒教を身につけた国家官僚の登場は時代の要求でもあった。科挙には製術業、明経業、法律、算数、医学などを試験する雑業があったが、武科は高麗最後の王・恭譲王のときに実施され高麗時代には無かったといえる。

 11〜12世紀にかけて政治、経済、文化が安定し、太平の世が続くと儒教文化が花開いた。文宗、粛宗、睿宗、仁宗ら学問を愛する歴代王たちにめぐまれ「国子監」はさらに整備され図書は充実し、学問所がつくられ編纂事業が活発になった。高麗は教育振興のためたくさんの本を刊行した。戦乱で多くの本が散逸した宋から高麗の本を購入し、筆写していくこともよくあった。

鄭夢周、李穡ら多数の偉人

天然記念物に指定された成均館のいちょうの木。幹の太さ7.1メートル、樹齢500年を超える

 14世紀に入り、儒教は仏教勢力に劣らない力を持つようになるが、これには朱子学の大家・安裕(本名・安珀)の功労が大きい。高麗末期31代王・恭愍王(1351〜1374)は「成均館」の発展に力を注ぎ純粋な儒教の教育機関に改編し李穡、鄭夢周、鄭道傳、朴尚衷ら才能ある人材を集め、性理学(朱子学)を研究するようにした。その結果、有名な儒学者たちが多数輩出されるようになり後日理念的に、政治的に朝鮮王朝を担う中心勢力が育つことになる。成均館の存在価値が大いに発揮されるのである。

 高麗末期、成均館大司成(学長に当たる)は当時の最高儒学者李穡であった。李穡は多くの門下生のうち鄭夢周と鄭道傳を双璧として高く評価していたが、この二人は高麗末期から朝鮮王朝のはじめに活躍した。

 1980年代末、子男山にあった開城博物館が成均館跡地に引っ越してきて現在では「高麗博物館」になっている。建物の内部は展示場として使われ、外部は昔の姿を遺している。成均館西側の小高い丘の野外展示場には、近隣の寺院から集めた由緒ある石塔や石燈、碑石などが展示されている。

 近い将来、満月台跡地に高麗王朝の宮殿を復元して、博物館も移るそうである。(文=洪南基、写真=文光善記者)

[朝鮮新報 2007.6.29]