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〈朝鮮通信使来聘400年−7−〉 倭館と出島

外国との貿易の2大拠点

 清・朝鮮・日本は、海外貿易を政府が独占し、許可のない海外交流を禁じた。解禁時代である。国を閉ざしたわけではないので「鎖国時代」と呼ぶことは正しくない。

 かえって江戸時代の方が、前のどの時代よりも海外交流、貿易が盛んであった。

 倭館と出島は、幕府が外国との貿易を行った2大拠点である。

 倭館は10万坪、長崎の唐人屋敷1万坪、オランダ商人の出島4000坪がそれぞれの規模である。

 これだけでも倭館の江戸貿易の位置を知ることができる。

 倭館は、あくまでも日本人使節と商人を応接するための客館であって、出島との決定的な違いがここにある。

 本来ならば客館は、首都のソウルにあるべきで、室町時代にはソウルに東平館という日本使節の客館があった。

 しかし秀吉の侵略のせいで、朝鮮政府は安全保障上の理由で、日本人使節の上京を許さなくなった。日本通信使は、すべて釜山東莱止まりになったのである。日本側は、大変残念に思うが、首都の相互訪問はついに実現しなかった。日本通信使のソウル訪問が行われていれば、日本人の見た朝鮮紀行文が今に伝えられていたであろうに。

 倭館は、客館の役割と同時に長崎と同じく、貿易センターであった。かつての室町時代にも、朝鮮の南海岸には貿易港として東莱などの三浦(港)を日本人居住区として貿易を行っていた。

 それを徳川時代には、東莱釜山の一カ所に集中させたのである。

 さて、朝鮮貿易と長崎貿易を銀の輸出で比べてみる。

 慶長銀を最も多く輸出したのは、はじめのうちは長崎港であったが、倭館での私貿易が盛んになると、朝鮮貿易が最大の輸出口になった。

 江戸の銀座が17世紀に入るころから銀の鋳造が低下し、長崎からの銀の輸出は制限したためである。

 1668年には、オランダ船の銀の持ち出しも禁止される。

 さらに、御定高仕法(1685年)で中国船は6000貫、オランダ船は3000貫の枠が指示される。対馬藩も規制を受けるが、江戸役人が規制する長崎と違って、同時期の中国船の年平均3000貫の7倍以上も銀を輸出した。

 1711年〜1750年の間には長崎からの銀輸出はゼロ同然であったのに、対馬からは年平均3万貫が輸出された。

 京都の西陣の織屋が「糸屋町銀主」という組合をつくって朝鮮貿易に資金を提供したからである。

 京都に本店を構えた三井家(越後屋)は、ダミー商社を通して投資し、対馬藩から直買いして利益をあげている。

 対馬、東莱経由の日本、朝鮮、清の「銀の路」「絹の道」は18世紀になっても衰えることがなかった。

 倭館には留学生もいた。医学研修生(稽古医師)、朝鮮語研修生(言葉稽古)、学問稽古、韓学稽古などの留学生がいた。

 現在の韓流ブームどころではなかった。どれだけの船の往来があったのかというと、1707年に84艘、1708年に65艘、1709年に90艘の船が往来している。

 己酉約条の規定では、年間20艘のはずであったが、実際には4〜5日に一便があり、朝鮮と日本はまさに近くて近い国であった。(金宗鎭、社協東海支部会長)

[朝鮮新報 2007.6.29]