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〈遥かなる高麗への旅 朝鮮史上初の統一国家D 恭愍王〉 反元・改革の先頭に立つ高麗の自主性回復に尽力

暗殺、政治に大きな影

 開城には直径13メートルの陵墓がふたつ並んでいる恭愍王(1351〜1374)の王陵がある。向かって左が「玄陵」(恭愍王の墓)、右が「正陵」で王后・魯国公主(元・魏王の王女)の墓である。恭愍王が生前に直接指示して造ったため、規模が雄大で細部に至るまで施設が完備され精巧で優雅につくられ各種の彫刻が施されてほかの高麗王陵とは比べられない豪華さである。

元の侵攻と三別抄の闘い

恭愍王陵・王自身が生前に築造した王と王后の双墓

 13世紀以降蒙古はユーラシア大陸を荒らしまくった。1218年初めて朝鮮半島に侵入してきた蒙古の軍勢は、騎兵の機動力を武器に猛烈な侵攻と略奪を繰り返しながら高麗全土を踏みにじった。武臣政権の抵抗や三別抄の闘いもあり、直属国にはならず王室は保全(領土と主権、軍隊を確保していた)されたが高麗は約100年間、元の干渉を受けた。元宗以来、後の王の諡号(死後のおくりな)には忠烈王、忠宣王、忠肅王、忠恵王と続きみな忠誠の証として「忠」の字が付けられた。元の皇室から高麗の王妃を娶るようになり朝鮮の歴史上類例を見ない王室間の国際結婚が続いた。1274、81年に二度の日本遠征が行われ物資の供給を強いられた。1280年以降「征東行省」が設けられ、高麗王を長官に据えたが「タルガチ(達魯花赤)」という監視官を派遣して内政に干渉した。元は金、銀、穀物、人蔘、服飾をはじめ「海東青」と呼ばれる鷹まで多くの貢物が割り当てられた。また、皇室の女性を貢女として連れて行き宦官まで徴収した。

 1330年に生まれた恭愍王は1341年元・順帝の入朝要求に従い11歳で燕京(北京)に入り1351年12月、21歳で王位に就くまで10年間を燕京で過ごした。

王陵を守る8体の智臣像

 即位した恭愍王は中国大陸の事情に明るく、大陸の各地で反乱が起こり元の退潮があらわにとなってきたことを感じていた。恭愍王は反元政策を強力に推し進め、高麗の自主性と民族性の回復に力を注いだ。

 恭愍王は1352年に辮髪と胡服の着用を禁止し王室のなかの親元勢力の追い出しにかかった。最大の親元勢力は貢女として元に行き順帝の第2皇后にまでなり皇太子生母となった奇皇后の奇氏一門であったが恭愍王は果敢に奇氏一族を掃討した。内政干渉の本拠地「征東行省」の理問所(司法事務所)を廃止、1356年からは元の年号を用いなくした。

 一方、元に占領されていた高麗の土地である北部領土の双城総官府(永興地方・元山の近く)に李子春(李成桂の父)の軍を差し向け実力で奪還した。1369〜1370年には高句麗の昔の土地を回復するため印璫、崔瑩、李成桂らの将軍を送り3回も遼東地方を攻略させた。

親元派の台頭僧・辛★の処断

恭愍王陵の墳墓の下の囲い石には、雪の模様と12智臣を浮き彫りにした花崗岩の屏風がめぐらされている

 中国大陸では1351年に「紅巾の乱」が起こり、頭に紅い布をかぶった4万の紅巾賊が1359年に鴨緑江を越えてきた。続いて1361年の第2次侵入では10万の軍隊が開京を陥落させた。翌年、高麗20万の軍隊が紅巾賊を打ち払ったが満月台をはじめ旧都は廃墟と化した。1368年には元は北に退き明朝が興る。

 恭愍王の改革政治は親元勢力の反発を受け高麗では親元と反元の葛藤が深刻になった。1363年には親元派の金繧轤ノよる「興王寺の変」が起こり王は危うく一命を取り留めた。兄を殺された元の奇皇后は復讐に燃え1363年に恭愍王を廃位させ、徳興君を無理矢理王に立てようとするが失敗する。さらに奇皇后は1364年、1万の軍隊を与え、鴨緑江を越えて義州を包囲させるが崔瑩、李成桂将軍らにより大敗する。順帝は恭愍王の復位を認め崔濡を高麗に圧送し徳興君は流配した。

 1365年、恭愍王は王后の魯国公主が難産のため亡くなると深い悲しみに暮れ、政治からは遠のき亡き妻の法事に明け暮れた。力を付けた儒学者たちの勢力を牽制するためか、既存勢力に左右されないと思えた僧侶の辛★(遍照)に政治を一任する。辛★は土地制度の改革や奴婢の平民への身分回復など初期には革新的な政策を実行するが権力の濫用と堕落で処断された。一方、恭愍王は私生活の乱れから暗殺される。

 恭愍王の暗殺は高麗末期の政治に大きな影を投げかけた。恭愍王の諡号「恭愍」は明が与えた。(文=洪南基、写真=文光善記者)

★=日へんに屯

[朝鮮新報 2007.7.2]