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〈人物で見る朝鮮科学史−35〉 高麗の科学文化(8)

朝鮮産生薬の研究書「郷薬救急法」

朝鮮人参

 高麗時代の科学技術の特徴は、それが民族科学としての性格を強く帯びたという点にある。科学は分野的には医学、天文学から、技術は金属加工から始まるが、当初は自然発生的で素朴な内容であった。しかし、その後、地理的環境、社会歴史的諸条件によって世界各地における科学技術は、それぞれの特徴を強く示すようになる。それが中世科学であり、朝鮮では後期新羅・渤海、高麗時代に相応するが、その典型を高麗における「郷薬」に見ることができる。

 生薬(自然から得られる薬材)による処方を一般に漢方というが、それは文字通り中国で発展した医学であり、当然その生薬も中国産である。朝鮮でそれを用いようとすると高価となり、手に入りにくいものもある。そこで、朝鮮産生薬が必要となるが、それが郷薬である。高麗時代には、この郷薬に関する研究が深まり、その成果として「郷薬救急法」が編纂された。1236〜1251年の間に刊行されたこの本は、上、中、下巻および付録からなり、とくに付録には170余種の朝鮮生薬の「郷名」とその性質、採取方法などを記述している。この「郷薬救急法」は後の世宗時代の朝鮮三大医書の一つ「郷薬集成方」の先駆けとなった書籍であり、朝鮮の伝統医学「東医」の出発点といえる。現在、高麗時代の書籍はほとんど残っていないなかで、この「郷薬救急法」だけは宮内庁図書寮に一冊だけ保管されている。

朝鮮人参畑

 さて、朝鮮における最高の郷薬といえば、「高麗人参」であることに異論はないだろう。だだし、この高麗は高句麗のことで、高麗人参は三国時代以前から不老長寿の霊薬として知られていたが、資源が枯渇するほどに採取され栽培されるようになった。それが本格化したのは14世紀の開城である。それは、開城が人参の栽培に適した気候だったという自然条件もあるが、もう一つは手間と経費のかかる栽培を行える人たちがいたということだ。彼らこそ開城商人と呼ばれる人たちであった。開城商人は高麗王朝に仕えた元両班たちであり、彼らは朝鮮王朝が誕生した時、二君にまみえずと商人へと転じたといわれ、当初からそれなりの土地と財力をもっていた。開城商人は人参栽培とその対外貿易を独占するが、その様相は「商道」というドラマにもなったので見た人も多いだろう。

 さらに、特筆すべきことに開城商人は、今日の複式簿記の原理に通じる「松都四会治簿法」を考案したことである。西洋では14世紀前半に北イタリアの商人が最初に考案したといわれているが、まさにそれと同時代である。現在、神戸大附属図書館には「開城簿記帳簿」が多数収集され貴重な資料となっている。(任正爀、朝鮮大学校理工学部教授、科協中央研究部長)

[朝鮮新報 2007.7.7]