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〈朝鮮の風物−その原風景 −1−〉 タンサンナム(堂山樹)

民衆とともに呼吸する

 都会をはなれ、農村に足をふみいれると、どの集落でも必ずといっていいほど、ひときわ目を引く巨木に出あう。タンサンナム(堂山樹)とよばれる村の守護神樹である。主にケヤキ、エノキ、イチョウなどの大木で、樹齢数百年たつものも少なくない。なかには高さ数十b、幹廻りが6bを超す堂々たるものもある。

 私たちの祖先は、古くから万物にはあまねく精霊が宿るとの素朴な信仰心から、巨木老樹を村の安寧と五穀豊穣の願いを叶えてくれる神樹として仰いできた。今でこそそうした信仰はすたれたが、数世紀にわたって集落と哀歓をともにしてきただけに、もはや村人にとっては家族、隣人同然の欠かすことのできない身近な存在となっている。

 四方に広がるみごとな枝ぶりの圧倒的存在感。それを仰ぐと、自然の底知れぬ生命力が伝わってくる。また、風雪を乗り越えてきた老樹に接すると、ささいな雑念に翻弄される人間のあまりに小さな存在を思い知らされ、心洗われる。

 かつては、タンサンナムのある広場では、村の安寧と無病息災、五穀豊穣の願いをこめた堂山祭(部落祭)がおこなわれ、トゥレ、プマシ(労力を出しあって共同で農作業をおこなう共同体的相互扶助)など、さまざまな問題を相談する村の中心的な場となった。

 また、四季を通じ三々五々集まった村人が日がな一日、都会にでた肉親の消息や孫の自慢話などに話の花を咲かせ、朝鮮将棋に興じる老人たちの笑い声がひびくくつろぎの場でもあった。その木陰はまた、真夏の昼下がりに涼を求める農夫たちの昼寝場としても提供され、村のガキ大将どもの格好の遊び場ともなった。

 タンサンナムは信仰の対象としての役目は当に失せたが、こんにちでは集落共同体のシンボル的な存在としてそこに佇んでいるのである。

 ところでこんにち、南朝鮮ではタンサンナムが次々に姿を消しているという。その理由はおおむね農村の都市化現象にあるといわれる。環境の変化に対応できず死滅する老樹も少なくなく、一時期、道路や区画整備を理由に樹齢数百年の巨樹が切り倒された事例もあったという。ひどいのはケヤキの古木が装飾品として高価なことに目をつけ、こっそり伐採するという心ない犯行も後を絶たない。

 それにしても昨今、タンサンナムの広場から、子どもたちの遊び声が聞こえなくなって久しい。衰退していく農村、農業とともにタンサンナムもまた衰えていくのを見るのは寂しい。タンサンの古木とその存在は、民族的情緒を色濃く湛えるかけがえのない「私たちの伝統風景」のひとつであり、後世に伝えるべき貴重な文化的遺産である。(絵と文=洪永佑、画家)

[朝鮮新報 2007.7.28]