最後まで朝・日国交交渉の再開願う 小田実氏を悼む |
「朝鮮問題は日本人をまっすぐにさせる」
ベトナム反戦運動など市民運動の先頭に立った行動派の作家で、元「ベトナムに平和を! 市民運動」(べ平連)代表の小田実さんが、7月30日、胃がんのため東京都内の病院で死去した。享年75歳。 小田さんの生涯を貫いた精神と行動の原点にあったのは、「殺すな」という言葉だった。そして、戦争や権力の下で、踏みにじられた人々への強い共感とまなざしがその並外れた行動力を支えたのだ。 一つのエピソードがある。95年の阪神大震災の際、小田さん一家も兵庫県西宮市の自宅で被災しながらも「市民救援金」を呼びかけて、公的資金を十分に得られないでいた朝鮮学校4校に600万円を寄付したことがあった。基金に参加した日本はじめ世界各国の人たちから「よくやってくれた」という声をかけられたととても喜んでいた。 大阪市生まれ。敗戦前日の45年8月14日に大阪大空襲に遭い、このとき目にした惨状がその後の小田さんの生き方の原点となった。「空襲は一方的な殺戮だった。空から降ってくる爆弾、焼夷弾に対して人々は何の抵抗もできないままにひたすら殺されてしまった」。道端に転がる黒こげの死体を片付けながら、13歳だった小田少年は、死ぬことと殺されることは違うということをひたすら考え抜いた。 朝鮮問題への取り組みも一貫していた。76年に訪朝して金日成主席と会見した。その行動を突き動かしたのは、国交のない歪んだ朝・日関係に終止符を打ち、朝・日の市民同士のまっとうなつきあいこそが大切だという信念からだった。
03年には日本と南の知識人194人が署名した「東北アジアの平和を求める日韓市民共同声明」を発表し、日本政府に対して朝・日国交交渉を直ちに再開するよう求めた。また、昨年10月末には、東京で開かれたシンポ「東北アジア平和のための韓国と日本の役割」に病身を押して出席し、朝・日正常化と東アジアの平和実現を訴えていた。 死の間際まで、小田さんの情熱と行動力は衰えをみせなかった。 生前、小田さんには何度もインタビューに応じていただいた。朝・日問題から、文学観まで幅広い話をうかがった。 そのなかで一番印象に残っているのは、「朝鮮問題は日本人をまっすぐにさせるものだろうね」という言葉だった。 デビュー作「何でも見てやろう」以来35年ぶりに米国から帰った直後の96年のインタビューで。 「(ニューヨーク州立大学での)最後の講義で、日本のアジア侵略を取り上げ、元『従軍慰安婦』らを写した一枚の写真を見せたことがある。その瞬間、学生らの顔に浮んだ怒りと恥ずかしさは、言葉でいい表わせないほどだった。『この写真をみて、問答無用の怒りを覚えない者は人間ではない』と語ると、いっせいに拍手が起きた。僕も感動しました」 「ナチスのホロコーストは、数百万人の虐殺を可能にする虐殺の政策化、合法化、組織化、官僚化、まとめあげて全体化が必要だった。この比類ないナチスの犯罪に匹敵するのが、日本軍が朝鮮女性を強制連行して仕立て上げた従軍慰安婦であろう。植民地支配下の女性を政策的、組織的に慰安婦にした凄まじさは、日本人の側のホロコーストではなかろうか」と。 さらに、今の日本文学が抱える問題点についても「加害性に徹底して迫る作品がない、これは現代文学の大問題」だと強く批判、ドイツにはどんな政治的な視点であろうとも、「アウシュビッツのような加害者の問題を徹底的に追及した作品が数多くある」と指摘した。 旺盛な好奇心、型破りで、スケールの大きな歩みだった。20余年前、身重の記者を何かと気遣ってくれて、「大変だけど仕事を続けてね」と励ましてくれた。アジアや世界の市民と手を結び、常に「踏みにじられる側」に立ち平和を求めた遙かな旅は今、静かに歩を止めた。(朴日粉記者) [朝鮮新報 2007.8.4] |