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〈遺骨は叫ぶE〉 三菱鉱業崎戸鉱業所 社史から消された7千人の朝鮮人炭鉱夫

廃墟と化した鉱山、痕跡留めぬ跡地

無人となっている炭住跡

 長崎県の西彼杵半島の外海を車で走ったのは、今年の3月中旬だった。春の晴れた日の角力灘は碧く光っていた。点在する小島の間で、漁をしている舟がかすんで見え、海の香を運んでくる風もやわらかい。

 だが、沖に浮かぶ島は、石炭産業が盛んだったころ「一に高島、二に端島、三に崎戸の鬼ヶ島」と坑夫に恐れられ、また、強制連行された多数の朝鮮人や中国人が労働したところだった。「西彼杵郡の島しょ部(主として炭坑のある島)に居住し、徴用および強制労働に従事させられていた朝鮮人の数は、伊王島1千人、香焼島5千5百人、高島3千5百人、端島5百人、崎戸町蛎浦島7千人、野母半島(現在の三和町付近)2百人、合計1万7千7百人」(「原爆と朝鮮人」)というから、膨大な数に驚かされる。わずか60数年前に、これほど多くの朝鮮人たちが厳しい労働と飢えに泣き、凶悪で苛酷な監督の仕打ちに明け暮れていたのだ。車の窓から見える穏やかな島からは、想像ができない暗い歴史だ。

 高島、端島と歩き、この日は、旧崎戸町の三菱鉱業崎戸鉱業所の跡地に行くことにしていた。かつては離島だったが、いまは橋で半島とつながり、西海市崎戸になっていた。しかし、大島から橋を渡って崎戸に着いた途端、島のあちこちに崎戸鉱業の煙突、無人になっている炭住の跡、固く閉ざされた坑口などが見えた。廃墟と化した鉱山の跡が島全体を覆っていた。ガラスが割れた炭住の窓の奥は、真っ黒な闇で、その闇が、鋭く見つめているようであった。

炭坑跡の煙突がつき立っている

 崎戸鉱業所の沿革を簡単にたどると、1888年に崎戸島の属島芋島沖の海中で、アワビ取りのもぐりが、黒色の燃える石を採集し、約3トンほど保存していた。1906年頃にロシアの船が阿戻下沖に避難し仮泊した。そこに石を持参し、品質の鑑定を頼んだところ、上質の石炭とわかった。その後、島の各所で試錐され、のちに九州炭坑汽船株式会社崎戸鉱業所が創立され、開削に着手した。

 崎戸炭坑は、海底炭坑としては傾斜もゆるく、ガスの発生も少ないので、順調に出炭をのばした。1935年には、石炭輸出港の認可も受けたほか、三菱鉱業に吸収合併された。

 日中戦争の長期化で、石炭の需要が高まり、年間の出炭量が100万トンを突破した。しかし、太平洋戦争が始まると、機械や資材の調達は難しくなり、出炭量が伸びるほど、多くの炭鉱労働者を必要とした。

 だが、戦争が激化すると、日本人は出征していき、その不足分を強制連行した朝鮮人を使った。1943年には「崎戸炭坑の最大出炭量になった。この年、炭鉱労働者は7079人、うち坑内夫は5134人であり、その約3分の1(1700人)は、強制連行を含む、朝鮮人労働者であった」という記録がある。坑内夫の約3分の1が朝鮮人強制連行者だったのだ。

 旧崎戸町の資料を集めている図書館、崎戸歴史民俗資料館、西海市産業振興課などに行ったが、朝鮮人、中国人強制連行の資料はない。

 戦争中の鉱山を知る人も、わからないという。「三菱鉱業社史」や「崎戸町の歴史」にもほとんど触れられていない。約7000人の朝鮮人たちは、記録に残されることもなく消えていた。それでも鉱山の廃墟を歩いているうちに、一人の老人と会った。戦時中に鉱山で働いていたという。80歳は過ぎているようだ。

 「朝鮮人は大正時代に、もう鉱山に来ていたそうだ。釜山に斡旋所があり、相浦を経由して連れてきたと聞いている。坑内では、朝鮮人の仕事は後山だけで、先山にはいなかった。ツルハシで5、6人、一山を受け持って石炭を掘っていたが、どんな生活だったかはよくわからない。よく集まって酒を飲んでいたが、トラジの唄やアリランの唄を唄っていた。ひどく物悲しく、泣いているようにも聞こえた。あとは忘れた」と言って背を向けた。

 崎戸鉱山は、比較的事故は少ないと言われたようだが、ガス爆発事故はよく起きている。

 「1933年6月3日、ガス爆発、局部扇風機停止し、オーガーの火花が引火、死者36名(うち朝鮮人9)、重軽傷者28名、死亡者朝鮮人―朴奉硯、李相吉、金李命、鄭相哲、朴日哲、李昌準、朴八景、金昌守、金松末」(「鉱山保安年表」1949年度版)とあるが、それ以上のことはわからない。また、妻が入院して生活に困った朝鮮人坑夫が、二女を殺して死に逃げたという記事が長崎新聞に載っているが、生活がまったく保障されていなかったことがよくわかる。

 地元の人の案内で、旧崎戸町本郷にある大祇神社に行った。鳥居の柱に「浅浦坑鮮人一同」と刻まれている。戦時中に朝鮮人が労賃から拠出し、鳥居を寄進したのだという。

 「民族意識の高い朝鮮人が、自分たちを鮮人というわけがない。戦意を高めるために、朝鮮人を利用したのだろう」と言ったが、案内した人は納得できないような顔をしていた。こういうのがいまも残り、住民は信じているのだ。

 蛎浦郷の真蓮寺には、31人の朝鮮人遺骨名簿が保管されていると聞き尋ねたが、住職が不在で、見せてもらえなかった。崎戸鉱業所の朝鮮人連行者は、民間の調査もなく、闇の中に葬り去られようとしている。

[朝鮮新報 2007.8.10]