〈この人、この一冊 −5−〉 「復刻戦ふ朝鮮」 宮田浩人さん |
国民の目前から消された「過去の清算」
原本の『戰ふ朝鮮』は、62年前の1945年6月20日付で朝日新聞社が発行した写真報道集である。8月15日、「大日本帝国」敗北のわずか2カ月弱前の駆け込み出版物である。今では古書店でも手に入らないが、戦時統制下とはいえ新聞社が大政翼賛体制にいかに積極的に関わったかを示す日本ジャーナリズム史の一つの証例だ。 原本は、出版の意図は別として、侵略戦争史の原点である朝鮮植民地支配の終末状況を記録した歴史資料の一つ。中身は天皇の名代として朝鮮に君臨した朝鮮総督と同じ視点に立ち、総督府施策の成果を喧伝する模範現場や提供写真で埋められ、強制連行や「従軍慰安婦」など被支配者朝鮮人の苦難に満ちた日帝支配の実相はなんら伝えていない。 しかし、注意深く見ると、朝鮮総督府がいかに総力をあげて朝鮮の人的、物的資源を狩り集め戦争に投入したか、根こそぎの植民地収奪の姿が浮かび上がる。 そしてまた、朝鮮の南北分断が依然続く現在、南の農業と北の鉱工業があってはじめて一つの自立経済圏をなしていた「統一朝鮮」の時代を記録した数少ない史料でもある。 原本の写真一枚一枚に解説を付し、詳細な年表を作成して編集復刻したのは、元朝日新聞記者・宮田浩人さん(65)。なぜ、62年も経た今、復刻版を世に出すことになったのか。7月28日、東京で開かれた出版記念会で、その経緯を同氏は次のように明らかにした。「復刻作業に取り組んだのは、02年の夏。病後療養中の私を見舞ってくれた友人の映画監督・呉徳洙さんが書棚から一冊のセピア色の古本を見つけ、いきなり私を怒鳴りつけてきた。『オイ、どういうつもりだ。この貴重な本を、こんな粗末に扱って』」と。 宮田さんは94年に朝日新聞を自主退社するまでの30年間、新聞記者生活の大半を、在日朝鮮人差別問題をはじめとする日本社会の「過去未清算」に根ざす朝鮮問題取材に費やしてきた。その体験を踏まえてあらためて頁をめくってみて、呉監督の憤りが改めて理解できた。 「『戦ふ朝鮮』という勇ましいスローガンの下、よそ行きの笑顔を装わされた人々が味わった屈辱。現役記者時代に、すべてを『朝鮮植民地支配の責任』の一語に括ってきた記事の軽薄さ。被支配者に思いを馳せる感性の貧しさを恥じた」と宮田さん。 愚劣な大政翼賛本だと放置することもできた。呉監督に発見されるまでは、『戰ふ朝鮮』の存在は宮田さんの記憶の片隅にもなかった。それから、この本の制作経緯を辿って、朝日新聞社史など手当たり次第に資料を追跡調査していった。そして、編集者が、戦後間もなく「週刊朝日」編集長などを歴任した父・新八郎氏であった事実に行き着いたのである。
父と子の朝鮮をめぐっての奇しき縁。「息子としては、父の不行跡に何らかの始末をつける責任があった」。 折りしも02年9月17日、小泉訪朝が実現。日朝平壌宣言によって、国交正常化への期待感が国際的に広がった。しかし、それは拉致問題一色と化した日本のマスメディアの狂態によって無残にも潰えた。 「小泉首相が初めて朝鮮民主主義人民共和国を訪問、金正日総書記と会談して発表した平壌宣言で、日本側は植民地支配を謝罪し、『過去の清算』を約束した。懸案の日朝国交正常化にとって画期的なことであった。しかし、報道機関の関心はその日のうちに拉致問題一点に絞られ、肝心の『過去の清算』は国民の目前からかき消されてしまった。朝日新聞も他社同様に平壌宣言には見向きもせず、日本全国民がいっせいに拉致被害者になったかのような狂騒に加わった。見事なまでの右へ倣えであった」と同氏は当時を振り返る。 「言論統制などの強圧は不要だ。マスコミという主体性を欠く付和雷同集団は、いとも簡単に、自ら翼賛体制を作り出す」。新たな醜い歴史の始まりだった。 「傍観せず、いま自分なりにできることをやらねば」と、復刻に取り組み、5年の歳月をかけてやり遂げたのである。 出版記念会に京都から出席した歴史家の中塚明・奈良女子大名誉教授は「平壌宣言から5年、日朝関係は日本の右派、靖国派の思惑通りには動かないことがはっきりした。今後も力をあわせて日本の植民地支配の根源的問題をあぶりだしていきましょう」とエールを送った。 「この復刻が、日本のジャーナリズム自らが植民地報道の責任と現在に至る歴史認識を問い直すよすがとなり、若い世代が日朝関係を考える一助になれば、望外の喜びだ」。宮田氏の言だ。(新幹社、4500円+税、TEL 03・5689・4070)(朴日粉記者) [朝鮮新報 2007.8.17] |