〈朝鮮通信使来聘400年−9−〉 歓迎された朝鮮良医 |
「東医宝鑑」は吉宗座右の書 朝鮮は医学先進国であった。 刊行された医学書は、200種類にも及ぶ。その最高峰の医書が「東医宝鑑」で許浚という国王の主治医が著した(1613年)。徳川吉宗は、この書物を生涯の座右の書の一つとし、日本語訳のために日本の学者たちを動員している。「東医宝鑑」は清の皇帝もこれを取り寄せて出版しているほどの名著である。 江戸では、朝鮮の医書が大いに研究された。宇喜多秀家らが朝鮮から持ってきた医書は54種138冊にもなる。その後に朝鮮医書の名著「医方類聚」(365巻)、「東医宝鑑」(25巻)などが出版される。 江戸の医学は、朝鮮医学なしには成立しなかった。 徳川幕府は、通信使一行に朝鮮の良医を加えてほしいと要請する(第7次通信使から良医が参加)。 良医とは国家試験(科挙)に合格した医者の指導的地位にある者たちである。朝鮮の科挙には、文科、武科、雑科の3つがあり、雑科は医者、数学者、通訳官、天文学者などの技術専門家を選んだ。 徳川幕府は、朝鮮の良医には駕籠を与えて厚遇した。 第9次の通信使・申維翰は「医学は日本でもっとも崇尚する。天皇、関白をはじめ、各州太守はみな医官数人を置いて、稟料を与えることははなはだ厚い」と、その社会的地位の高さについて述べている。 さて江戸の医者たちは、朝鮮の良医に大きな期待を寄せて、医事問答を熱心に行った。吉宗の命により、奥医師の林良以と息子の良喜は、朝鮮の良医権道足先生と4回も医事問答を行っている。吉宗は、本草学者にも問答に参加させ、朝鮮人参に関して質問させている。 北尾春圃と奇斗文の医事問答は「桑韓医談」として京都で出版された。 竹田定直と奇斗文の医事問答集も40冊になる。 初代春圃に次いで2代、3代と良医との医事問答が行われた。 大阪で築山竜安が医員白興銓と問答を交わしたことが「桑韓唱和集」に記録されている。山田図南と良医李佐国の問答は、「桑韓筆語」に記録されている。要するに江戸時代の名だたる医者たちが、先進医学を吸収するために、朝鮮の良医たちとの問答に熱心であり、それを出版し、江戸医学の向上に役立てたことである。「桑韓」の桑は、日本を扶桑の国とも呼んだことから、韓は朝鮮の古い時代の三韓から来たものである。 朝鮮の良医、人参、医学書は、まさに江戸時代の医学の花形であった。 ドラマ「許浚」「大長今」で朝鮮の医学が日本に紹介されていることは好ましいことだが、江戸時代の時代劇にはせいぜい「朝鮮人参」しか出てこない。もうそろそろ良医や「東医宝鑑」が登場してもいい頃だ。 ここで江戸時代の学問の交流を行った通信使のエリートが合格した科挙試験に一言触れる。三使たちは文科の合格者たちで、合格するためには62万字の書物をマスターしたと言われる。「千字文」の本に例えれば620冊分の量である。 彼らは両班の生まれで、5〜6歳のころから学問を始める。通信使一行の使行録に、日本を「蛮夷の国」とする記録があるが、学問レベルからすると無理からぬ面もある。一部の学者・林羅山、新井白石、雨森芳州のレベルの高さには敬意を表している。 通信使に送った水戸黄門の漢詩に関しても、「蛮夷の国」の人物としては出来が良いと記している。(金宗鎭、社協東海支部会長) [朝鮮新報 2007.8.24] |