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〈人物で見る朝鮮科学史−37〉 朝鮮王朝文化の幕開け(1)

世界最古の石刻「天象列次分野之図」

彩色天文図

 高麗末期、政権内では大土地所有者である親元勢力と地方豪族出身の新興官僚層が対立、後者の中心に倭寇の撃退で大きな功績をあげた李成桂がいた。彼は明の軍を追い払う命を受け国境付近に進軍するが、威化島でとって返し反対勢力を排除、自身が王となり国号を朝鮮とした。1392年のことであるが、王朝が王氏から李氏に変わったことから「易姓革命」とも呼ばれる(そうすると次の「易姓革命」というのもありうるわけで、事実、朝鮮時代中期には次の王朝は鄭氏であると予言した「鄭鑑録」という本が流布している)。

 東アジアでは伝統的に王は天によって選ばれたものが政事を行うと考えられており、歴代の王たちは天体の動きと天象の変化に大きな関心を傾けた。そこで当然のごとく天体観測が国家の重要事業となり、天を象徴する天文図の作成に力が注がれた。朝鮮王朝の太祖となった李成桂にとって幸運にも、唐・新羅連合軍との戦火の中で大同江に没した高句麗石刻天文図を献じた人がいた。それを基に新たな観測によって修正して1395年に作られたのが「天象列次分野之図」である。星座の配列を12に分けて順に並べた図という意味であるが、この名称は朝鮮独自のものである。ちなみに、日本には「貞亨暦」の作成者である渋川春海が作成した「天象列次之図」と「天象分野之図」があり、「天象列次分野之図」の影響を受けたものと考えられている。

太祖石刻図

 さて、今日、しばしば目にする「天象列次分野之図」は版本あるいは彩色図であるが、オリジナルは石刻図である。では、その後、その石刻図はどのようになったのだろうか。当初、それは慶福宮内の天文観測施設に置かれていたのだが、壬辰倭乱時に施設は焼失、石刻図もそのまま放置されていた。そして、第19代粛宗王が1687年に新たに石刻天文図を作ると磨耗が激しい太祖代の石刻図は見向きもされなくなった。それでも第21代英祖王が慶福宮を巡回した時にそれを見つけ保存を命じた。1770年のことであるが、それを保管した建物は世宗代に自動水時計を置いた建物と同じく「欽敬閣」と名づけられた。

 しかし、朝鮮王朝は1905年以降実質的に日本に支配され、1907年に昌慶宮が昌慶園と格下げとなって博物館が作られた時に石刻天文図もそこに移された。軒下とはいえ地面にそのまま置かれ、解放後には遠足に来ていた子どもたちのベンチのようになっていた。それは1960年代まで続いていたが研究者たちの努力によってその価値が再認識され、70年代に世宗大王記念館に納められ1985年には国宝に指定、現在、徳寿宮・宮中遺物博物館に展示されている。中国宋代の「淳祐天文図」(1247年)とともに世界でもっとも古い石刻「天象列次分野之図」は、約600年の歳月を経て安住の地を得たのである。(任正爀、朝鮮大学校理工学部教授、科協中央研究部長)

[朝鮮新報 2007.8.24]