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〈生涯現役〉 ウリハッキョ支えて半世紀−呉秉玉さん

組織思う心に「引退」なし

 昨年、米寿のお祝いをした東京都足立区の呉秉玉さん(89)。茨城県猿島郡にある塩化ビニール工場「日興化成株式会社」の創業者であり、約40年間、同区内にある東京朝鮮第4初中級学校の教育会副会長としてウリハッキョを財政的に支えてきた。また、総連足立支部顧問として、さまざまな集いに、妻の金左武さん(79)と健やかな姿をみせると、2人の周りにはいつの間にか同胞たちの談笑の輪が広がる。

美唄炭鉱と中島航空へ

快活に語り、笑う呉さん

 秉玉さんの故郷は、済州道南元面為美里(現在の西帰浦市)。1918年、麦やいも、あわなどを作る小作農の両親の下に生まれたが、日本の植民地支配が進むなか、暮らしはどん底に。

 「島には特別に金持ちはいなかった。島でできたものを隣近所で分け合って、仲良くくらしていた」と当時を懐かしそうに語った。

 10歳の頃、両親と共に大阪へ。やがて島の祖父母の下に戻り、24歳で、再び日本へ。

 「徴用され釜山に集まると100人ほどの同胞たちが集められていた。そのまま船に乗せられ、下関から北海道の美唄炭鉱へ運ばれていった」

 太平洋戦争が激化するなか、日本帝国主義はエネルギー確保のため、朝鮮半島から若い青年たちを駆り出すのに躍起になっていた。

 トロッコに乗って、真っ暗な狭い穴に入り、額に下げた薄い燈だけを頼りに、一日十数時間の強制労働。落盤事故で命を落としたり、逃亡して捕まり、拷問やリンチを受けて死んでいく同胞たちの姿が目に焼きついている。粗末な食事とわずかな賃金が支給されるだけの毎日。逃亡を防ぐために周囲には鉄条網が張り巡らされていた。

 そんな厳しい監視網を潜り抜けた秉玉さんは、冬の寒い日、ある同胞と2人でここから脱出したという。

 「しばらく農家の作業場のかんなくずの中に潜り込んで、身を隠していた」という。幸い幼いとき、大阪で日本語をある程度自由に話せるようになっていた秉玉さんは、室蘭から、両親のいる東京へと身を寄せた。

 ホッとする間のなく、今度は3歳下の弟共々、三鷹にあった中島航空金属株式会社に「徴用」で動員され、ここで、祖国の解放を迎えた。27歳だった。

走行距離は地球何周も

足立・第4初中の新校舎の竣工式に参加した同胞商工人たちと共に(左から3番目が呉さん、66年5月29日)

 解放を迎えても生活はいっこうによくはならなかった。そんなとき、同じ済州島出身の現在の妻・金さんを紹介され、結婚。夫は32歳。妻は22歳だった。

 2人は足立区の一角で安いゴムを仕入れ、長靴や運動靴、足袋を作る嵐n球ゴム工業所を始めた。秉玉さんは販路を拡大させるために、都内はもとより青森、九州、茨城、埼玉などに商品を持って売り歩いた。

 都内なら「リアカーや三輪車、オートバイに乗って行かないところはない。足立から世田谷まで自転車で毎日売りに行ったことも。自転車の走行距離は地球何周になるかも」と妻は当時を振り返った。

 64年には会社を現在の形に変更した。業績も順調に伸びたが、公害問題が社会問題化するなかで、下町の住宅密集地域での工場拡大は難しくなって、74年、会社を茨城に移転した。

 「当時は高速道路もまだなく、片道3時間かけて通ったものだ」と秉玉さん。いまは、高速道路が通り、家業を引き継いだ社長で長男の斗栄さん(57)、三男の升永さん(53)が、父が通った道を通い続けている。 

義父母の背中見ながら

昨年、家族で呉さんの米寿を祝った

 秉玉さんはまた、東京第4初中の教育会副会長を40年近くも務め、献身的に民族教育の財政的地盤を支えてきた。植民地時代、貧しく学校に行けなかった無念を、決して子どもや孫の時代に繰り返させてはならないという一念からである。

 「もうすでに多くの先輩たちが亡くなったが、みんな必死だった。暇さえあれば、同胞の家々を訪ね歩き、学校のためにカンパをお願いした」と身を削って奮闘した日々を懐かしむ。

 妻の左武さんは「『知恵のある人は知恵を、力のある人は力を、お金のある人はお金を!』…これを合言葉にそれぞれが学校建設の現場でシャベルを振るったり、行政に掛け合ったり、お金をカンパしたり…。できることをそれぞれがした」と満足そうな表情で話した。

 工場の仕事も教育会の仕事も「引退」した今でも、支部や学校行事への参加は、欠かしたことがない。組織をこよなく愛する精神は、息子のつれあい全栄玉女性同盟足立支部副委員長(55)に自然に引き継がれている。

 女性同盟足立支部60周年を祝う行事、その裏方たちをねぎらう食事会などですべて手作りのごちそうを用意し、みなが喜ぶ姿に心からの幸せを感じると話す全さん。「長年、愛国活動に献身してきた義父母の背中をみながら学んだことです」とそっと涙ぐんだ。(朴日粉記者)

[朝鮮新報 2007.8.24]