top_rogo.gif (16396 bytes)

〈遺骨は叫ぶF〉 釜石鉱山 被災の実態不明、行政が調査すべき

落盤事故、さらに連合軍艦砲射撃の犠牲に

日鉄鉱業釜石鉱業所の鉱山跡(釜石市甲子町)

 秋田県北の山村に生まれた筆者は、小学校が国民学校に改称された1941年に学校へ入学し、戦時教育を受けて成長した。日本が敗戦になる直前の45年7月14日、突然東の方からものすごい爆音が続けざまに聞こえてくると、庭の柿や桐の木が大きく揺れた。家に入ると、ガラス窓が震え、柱がぎしぎしと音を立てた。太平洋側の釜石市が、連合国艦隊に艦砲射撃を受けたのを数日後に知ったが、直接戦場の体験がない筆者には、戦時の原点の一つ。時々釜石市に原点を訪ねて行っているが、今年も8月上旬に行き、朝鮮人連行者の足跡を歩いた。

 JR釜石線釜石駅から約15キロほど山間部に入った釜石市甲子町に、日鉄鉱業釜石鉱業所(釜石鉱山)があった。

 日本で最初に洋式高炉により製鉄に成功した鉱山だが、現在は閉山となり、廃鉱から湧く水をボトルに詰めて発売している。戦時中は、国内の数少ない鉄鉱石産出鉱山として、増産に次ぐ増産をおこなった。

石応禅寺の境内にある「無縁多宝塔」

 しかし、採鉱などに必要な機械などの資材が44年に入ると、いっそう不足し、人海戦術による生産に頼った。農村部からの挺身隊をはじめ、朝鮮人、中国人連行者や、連合軍捕虜なども入れた。

 「当時の釜石鉱業所では、朝鮮人労務者約千人、中国人捕虜約265人(帰国までに123人死亡)、連合軍捕虜約180人(後で釜鉄に収容されていた約百人と合流280人となる)を収容、憲兵隊大橋分遣隊が配属され、警察力を強化して就労させていた」(「釜石鉱山労働運動史」)という。

 朝鮮人たちは、選鉱場前にあった11棟の長屋に収容され、昼夜交代で12時間の危険な現場作業に回された。

 「人手不足の中、北海道から応援の労務者の中に朝鮮人がいた。言葉が通じず仕事の能率が上がらなかったが、重い鉄鉱石の選鉱に使われていた。落盤で亡くなった人もかなりいた。彼らの住んでいた場所は、教室5つぐらいの長い寮舎だった。食事や寝起きは日本人とは別で、貧しい身なりでかわいそうに思っていた」と、釜石鉱業所に勤めていた人の話が「追悼之碑埋納名簿」に収録されている。

 釜石鉱業所では、戦時中の無計画な増産で、山の形が変わるような落盤事故が何度も起きている。その中でも大きかったのが、44年の事故で、朴慶植氏が釜石鉱業所の菩提寺的な正福寺(曹洞宗)の住職から聞いた話として、「増産計画で8、6、4坑の堅坑をダイナマイトで爆破したため、30余人の労働者が死亡、36車両が飛ばされたという。しかし、過去帳には、16人しか名前がなく、同胞死亡者は5人が書かれてあった。遺体を掘り出せない犠牲者がだいぶいるように思われた」(「朝鮮人強制連行の記録」)と書いている。鉱石が足りないためにハッパをかけて採掘したのだが、「そのため落盤があると一度に何人も生き埋めになったことも。『血を流した死体をロープで引っ張り出した』。当時、坑内で作業した在日朝鮮人は振り返る」(岩手日報95年9月20日)。

 釜石鉱業所には、戦時中に約1000人の朝鮮人連行者がいたというが、犠牲者数は不明である。「正福寺が保管する十数人の過去帳と、これとは別に32人の死亡を記録した資料」(同)と、引き取り手のない当時の遺骨体が位牌堂に残されている。

 釜石鉱業所の跡地を歩いた翌日、釜石駅前にある日本製鉄(現新日本製鐵)釜石製鉄所を歩いた。太平洋戦争中の釜石製鉄所は、東北地方有数の軍需工場で、約1万人が働いていた。

 釜石製鉄所には、約800人の朝鮮人連行者が働いていたといわれ、当時の松原町には協和寮、中妻町には長屋があり、多くの朝鮮人が住んでいたのを記憶している人がいた。また、戦争末期には、スパイの通報を防ぐために「扶桑第601工場」と呼ばれたが、「半島人と呼ばれる朝鮮人がたくさん働いていた。力持ちなのにびっくりした」という証言も残されているので、人数はもっと多かったのではないかと考えられるが、実態はほとんどわかっていない。

 この釜石製鉄所を擁する釜石市が連合国艦隊の攻撃目標となり、45年7月14日に本土初の艦砲射撃を受け、8月9日には他都市に例のない2度目の艦砲射撃を受けた。2日間で、5346発の砲弾が撃ち込まれ、製鉄所と市内は焼け野原と化した。

 最近の民間の調査では、死者が991人。このうち朝鮮人の艦砲戦災犠牲者は35人まで確認されている。この中に2歳と4歳の子どもが含まれているが、家族名はわかっていない。また、日本名の朝鮮人は、日本人の死者の中に紛れ込んでいる可能性もあり、「行政が調査すべきだ」と関係者は語っていた。

 この遺骨は、市内の石応禅寺の無縁多宝塔に納められている。

 なお、犠牲者のうち、32人の名簿が1970年代に明らかになり、11人の遺族が遺骨と未払い金の返還を求め、日本政府と新日鉄に対して、東京地裁に訴訟を起こした。

 新日鉄とは和解が成立した。しかし、国相手の裁判は、今年1月に最高裁で棄却、敗訴となった。

 また、連合軍捕虜収容所の32人の艦砲戦災などの犠牲に対して、横浜裁判では当時の分所長らが有罪となった。しかし、朝鮮人や中国人連行では一人も罪に問われていない。(作家、野添憲治)

[朝鮮新報 2007.8.27]