〈人物で見る朝鮮科学史−38〉 朝鮮王朝文化の幕開け(2) |
当代随一の文人といわれた権近
1395年の「天象列次分野之図」が高句麗の石刻天文図を基に作られたというのは、そこに刻まれた銘文から判明することである。さらに、そこには「論天」と題して蓋天説、渾天説など中国古来の6つの伝統的宇宙論が列挙されている。蓋天説は「天円地方」説ともいわれ四角の地の上に円い天があるという宇宙論で、三国時代にはすでに広く普及し、高句麗古墳壁画の天文図や新羅の瞻星台はそれをイメージしたともいわれている。渾天説はしばしば鶏卵に例えられ、殻が天でその中の海に地が浮かんでいるという宇宙論で、朱子学の宇宙観として両班知識人たちが是とした。両者が朝鮮時代前期までの基本的宇宙論といえるが、そこに転換が起こるのは西洋科学知識としての地動説の受容と17世紀の金錫文の宇宙論によってである。 さて、石刻「天象列次分野之図」にその由来および論天の記事を書いたのは、鄭夢周門下で当代随一の文人といわれた権近(1352〜1409)である。数学、性理学の造詣が深く、当時、朝廷のすべての文書を起稿したのも彼であるといわれている。18歳で科挙に及第した権近は、春秋館官吏を皮切りに文官の道を歩むが、高麗34代王に共譲王が即位するとその反対勢力の一人として極刑に処せられそうになった。その窮地を救ったのが李成桂で、清州獄に囚われていたが、その後、益州へ流配となる。その地で著したのが性理学の入門書「入学図説」である。そして、朝鮮王朝が建国されると李成桂の要請に応じて出仕、第3代太宗王に重用される。
鄭夢周が朝鮮王朝への出仕を拒み開城の善竹橋で謀殺されたエピソードは有名だが、権近が師とは異なる道を歩むことになったのは李成桂との浅からぬ因縁によるものだろう。鄭夢周の殺害を決断したのは後に3代王となる李芳遠であるが、彼は父である李成桂が異母弟を王にしようとするのを知り先手を取って彼らを処断、まず兄に王位を継がせ2年後に3代王となった。その際、功があった者は「佐命功臣」に遇されたが、権近もその一人であった。ただし、権近が具体的にどのような役割を果たしたかは定かではない。 自身の境遇を反映してか、権近は2人の高麗の遺臣を朝鮮王朝に推挙している。その一人が文益漸の息子・文中庸である。彼には文莱と文栄の2人の息子がおり、文莱は独自の糸を紡ぐ車を考案、それは「ムルレ・パンア」と呼ばれている。さらに、文栄も独自の織り方を研究し普及させたので、それを「ムミョン」と呼ぶようになったという。ちょっとできすぎの感もあるが、彼らが木綿の栽培に成功した祖父・文益漸の偉業を引き継ぎ発展させた事実を物語るものだろう。(任正爀、朝鮮大学校理工学部教授) [朝鮮新報 2007.9.1] |