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〈人物で見る朝鮮科学史−39〉 朝鮮王朝文化の幕開け(3)

火薬を製造した崔茂宣の息子、海山

改良された火車の復元模型

 権近が推挙したもう一人の人物、それは独自に火薬を製造した崔茂宣の息子・崔海山(1380〜1443)である。崔茂宣の火薬武器が倭寇の撃退で大きな威力を発揮したことはすでに述べた。その時、大きな功を挙げた人物が李成桂で、当然、何らかの関係があったと思われるが、朝鮮王朝建国時における崔茂宣の動向は知られていない。

 崔茂宣は1395年にこの世を去るが、妻に息子が大きくなった時に伝えてほしいと火薬の製造法を記した「火薬修練法」を残していた。これを学んで崔海山も火薬の専門家に成長し、権近の推挙を受けることになるのである。ということは、その間の事情を知るほど権近と崔茂宣は親しい関係にあったということであるが、その一端を示す事実として1380年の鎮浦海戦の勝利を祝した「賀崔元帥茂先破鎮浦倭船−公始作火砲」という権近の詩が残されている。

 「公の才略が時を得て生まれ/30年の倭乱を一日で平定す/風を乗せた船は鳥の翼も及ばず/火車は雷声轟かせ陣を促す/周瑜が葦束を燃したことは笑い話の如し/信が船橋を造ったことは誇らしいことでもない/今や公の業績が萬世に伝わり/凌煙閣に掲げられた卿らの肖像画のなかでも冠たり

大碗口

 公が火砲を作ったのは天の助け/一度の海戦で兇徒を一掃し/天にも届かんとした賊の気勢は煙とともに消えうせ/世にとどろいた公の名は日とともに永遠なり/永久の誓いに歳月も待たず/軍事を担い弓鉄を賜る/宗廟社稷は賀を祝い国は安定し/億萬民の命再生す」

 三国志の英雄で諸葛孔明とその智慧を競った周瑜や、漢の高祖劉邦の軍略を担った韓信を引き合いに出してのその評価は激賞といってもいいだろう。その後、権近は流配の身となったが、崔茂宣との親交は続いていたのだろう。

 1401年に「軍器寺主簿」に抜擢された崔海山は、1407年に高性能火薬の実験に成功、ちょうどソウルを訪れていた日本の使臣もそれを見て驚愕したという。さらに、1409年には今日の連射式ロケット弾の原型ともいえる「火車」を開発している。残念ながら現物は残っていないが、「太宗実録」では「鉄で作った羽根を着けた鉄梵数十発を銅筒に入れ台車に載せて火薬で発射させる」と伝えている。

 また、崔海山は明国の難破船から得たものを参考に大砲の一種である大、中、小の「碗口」も製造している。父である崔茂宣は倭寇を海上で撃退するために火薬武器を開発したが、海山の火薬武器は陸上戦を想定したところにその特徴がある。実際、火車や碗口は改良を重ね、北方の女真族の制圧や豊臣秀吉の朝鮮侵略、すなわち壬辰倭乱時にその威力を発揮した。(任正爀、朝鮮大学校理工学部教授)

[朝鮮新報 2007.9.8]