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〈朝鮮通信使来聘400年−10−〉 画員と絵師の交流200年

朝鮮の美術に高い関心

 南画の大家である池大雅が、富士山の画法について問い、通信使画員の金有声がそれに答える。

 外国の一流の画家たちと直接会って語り合う。こんな願ってもない交流の場を、江戸の絵師は通信使の画員との間に持った。

 朝鮮の画員の場合には、清の絵画事情にも明るいので、江戸の絵師たちは、彼らから清の絵画についても知ることができたであろう。

 江戸時代に日本に来た画員は、13人が記録に残されている。

 正式な画員以外にも、絵を良くする者がいて、彼らの作品も日本に伝えられている。

 江戸幕府の御用絵師たち、狩野探幽、狩野益信、狩野常信、浮世絵師の羽川藤、住吉派の絵師による朝鮮通信使関連の美術作品が残されている。

 金明国と狩野探幽との交流、朴東晋と狩野常信との交流など、その都度ごとにあった画家たちの会話は、記録には残されていない。

 第10次通信使画員の李聖麟と、大阪画壇の大岡春朴の交流は使行録に見える。

 両人は、互いに絵を描き、それを交換し、家宝にすることを約束する。

 英一蝶も朝鮮通信使を描いている。画員との交流がうかがえる。

 金明国は、第4次(1636年)、第5次(1643年)の通信使に加わり、江戸に2度も来ている。

 彼が日本で描いた作品(鷺図)に林羅山が一筆(着賛)している。

 日本には、通信使画員の残した絵画の他にも、多くの朝鮮絵画が伝わっている。

 高麗時代の仏画は80〜140点が知られ、朝鮮王朝時代の作品は、その数倍にもなるという。

 このように多数の朝鮮画が日本に所在する理由は、一に、室町時代から日本側が熱心に請来したこと、二に、秀吉の侵略の際の略奪によるもの、三に、通信使時代の往来によるもの、四に、植民地時代の流出にあるといわれる。

 その流出の経緯はともかく、過去に日本人は、朝鮮の美術に高い関心を持ち、その美意識に共感していたことがわかる。

 すぐれた朝鮮絵画は、古代からの国による画家の養成と保護に由来する。

 新羅時代には、彩典、高麗時代には図画院、朝鮮時代には図画署、図画院が置かれた。

 朝鮮時代の画員は、国家試験(科挙の雑科)で選ばれ、品階が与えられた。

 善画(従六品)、善絵(従七品)、画史(従八品)、絵史(従九品)などの画員がいて、総責任者の大臣(提調)と、実務責任者(別提)が監督した。

 朝鮮と日本の絵画交流の歴史は古い。

 飛鳥時代の高句麗、百済、新羅画師たちの活躍は、法隆寺の壁画を描いた高句麗の画家、キトラと高松塚の古墳の壁画にみられる。

 室町時代は、御用絵師の周文のように朝鮮に行き、その画法を摂取した交流がある。

 周文は、あの雪舟の師で、1423年に室町幕府の使節の一員として朝鮮に行く。

 同じ頃に朝鮮人画家、秀文が日本に渡り、曽我派の祖となる。

 大徳寺を中心に活躍した文清をめぐって、朝鮮画人か、日本画人かの論争がある。

 日本の歴史教科書は、宋画、元画の交流しか記述しない。

 歴史人名辞典の場合も、池大雅のように、「…中国の伊孚九から南画を学んで、南画家として名を成した…」と記述するが、通信使金有声との交流や、通信使一行を描いた作品に関しては触れない。(金宗鎭、社協東海支部会長)

[朝鮮新報 2007.9.29]