〈生涯現役〉 結成大会から参加して60年−康鳳日さん |
女性同盟は「世界への窓」
「女に学問はいらない」−日帝時代の朝鮮で生まれた女性は、性差別の部厚い壁の前で、どれほど悔し涙を流したであろうか。 今月81歳になる女性同盟東京本部顧問・康鳳日さんも、少女時代から学問をしたい、世の中に出て自分の能力をためしてみたい、男女同権を実現したい、そんなほとばしりでる思いを抱きつづけて生きてきた。 1926年、済州島西帰浦の貧農の家に生まれた康さんを、幼い頃から縛ってやまなかった封建的な「家」の秩序。7人兄弟の次男であった父は、家長の兄のいいつけに逆らえず、ましてや娘を書堂(寺小屋)に通わせることなど「あるまじき所行」であった。 書堂に通ったのは、満6歳を迎えた叔父の長男で、康さんの2つ年下の従兄弟だった。「書堂から従兄弟が帰ってくると習った千字文や漢文を祖父の前で反復させられた。その時、一緒にそらんじるのだが、私がすぐ覚えてしまうので、祖父が『この娘が男の子だったらいいのに』といつもため息をもらしていたのをよく覚えている」。 アボジが恐かった 日増しに酷くなる日帝の収奪による生活苦…。島の人々はますます困窮の度を深めていった。そんな中、古い因習を嫌った母は出奔、父も出稼ぎのため大阪に渡った。幼い日から父母の懐の温もりを知らなかった康さんは「連れ立って歩いている母子を見ると羨ましくて涙が止まらなかった」と述懐する。 9歳の頃、同郷の区長に預けられて、船で大阪の父の元へ。猪飼野に居を構え、ゴム工場で働く父はすでに再婚し、まもなく妹が生まれた。康さんは子守りや家事に精を出すかたわら、鏡を作る工場に働きに出た。
「物心がついて初めて会った父に『アボジ』となかなか声がかけられなかった。怖くて、怖くて…」。日本では男女が共に学校に通っている時代に、父は小学校にも通わせてくれず、同胞たちが運営する夜間学校にも「女には不要」の一言で行かせてくれなかった。 「その頑なさが恨めしくて『死んでくれたらいいのに』とさえ思ったこともある」と目をうるませた。しかし、諦めきれない康さんは父に隠れて3カ月だけ成人学校に通って朝鮮語を習った。その後、日本の夜間学校に通いはじめたのが父にばれ、友だちから借りた教科書を焼かれてしまったという。 自我にめざめ、学問への吹き出るような情熱。一計を案じた康さんは父と同郷の篤志家を単身訪ねて、頑固な父を説得してくれるように涙ながらに訴えた。それが功を奏して父から「おまえが好きなようにしろ」と、やっと許しを得た。 康さんは16歳で鶴橋にあった御幸森第4小学校の6年生に編入され、念願の学びの道をスタートさせた。「算数や絵が難しくて、無我夢中で勉強した。徹夜が続いても苦にならなかった」。父は、その年に島に帰郷。今度はオモニと暮らしはじめた。翌年には阿倍野区にあった灯影高等女学校に進学、学費は父から毎月送金されてきた。 しかし、卒業間際の45年3月、女子挺身隊として泉大津の紡績工場に動員された康さんは栄養失調による足の骨髄炎に倒れ、入院。3月13日の大阪大空襲を病院で遭遇し、九死に一生を得た。「病室には空襲の被害者らが次から次へと運び込まれ、消毒もない不衛生な環境のもと、傷口からはうじ虫がわいていた」。 男性と初めて討論 それから半世紀余、23回も足の手術をすることになったが、解放当時は、痛みを忘れて「何かしなければ」の一念で奮い立った。学ぶ機会がなかった子どもたちを集めて、知人の長屋の一室を借りて勉強を教えたり、後に民青に集うことになる若者たちと夜を徹して討論をしたことも。「それまでは異性と話したことなどなかった私にとって、天地開闢のできごとだった」と顔を赤らめる。この頃来阪した作家・宮本百合子の世話をしたことも強烈な思い出の一つ。 45年10月15、16の両日、東京・日比谷公会堂で開かれた朝聯結成大会に参加したのに続き、47年10月12、13の両日、東京・京橋公会堂で開かれた女性同盟結成大会にも参加。すでにこの年の5月、東京に居を移した康さんは女性同盟結成の準備委員として活動中だった。慌しい日々の中、翌年1月には運動の過程で知り合った同い年の青年、夫允信さんとの新生活をスタートさせた。 女性同盟の活動は解放後に開けた世界への窓だった。封建制のくびきから解き放たれた女性たちは、文盲退治運動や成人学校設立にこぞって立ち上がった。それから60年の歳月は「矢のように過ぎていった」と笑う康さん。女性同盟の分会役員、東京・葛飾支部委員長、東京都本部副委員長兼墨田委員長を歴任。朝鮮新報編集局の幹部として多忙な夫と家事や育児を分担できる時代ではなかった。2男2女を実母に託し、活動に明け暮れた。 幾多の試練、そして苦闘の軌跡。康さんはそんな日々を振り返りながら、「祖国の懐があってこそ今の幸せがある。統一祖国実現へと女性たちが今以上に学び、能力を磨いてほしい」と夢を託す。(朴日粉記者) [朝鮮新報 2007.9.29] |