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〈本の紹介〉 愛するとき奇跡は創られる 在日三代史

民族と出会いの大切さ

 本書の主人公・宋富子さんは、東京・新宿にある高麗博物館の館長であり、一人芝居の演技者であり、4人の子のオモニである。59歳で南に留学して、一人芝居「愛するとき奇跡は創られる」のセリフを朝鮮語で覚え、南で公演までやりとげた。とにかくその半生はエネルギーとガッツに彩られている。

 1941年、奈良県飛鳥地方の藤原京に近い、自然に囲まれた被差別部落の中で、在日朝鮮人2世として生まれ、そこで育った。2歳のとき、46歳の働き盛りだったアボジを失った。父より10歳下だったオモニは遺された6人の子どもを育てるために必死でリヤカーを引いてボロ買いをして働いた。

 大好きだったオモニ。しかし、学校に上がるようになったら、それが一変する。貧しさと朝鮮人という理由で、いじめにあうようになり、オモニを憎むようになったという。陰湿な差別がエスカレートする中、富子さんは小学校3年生の頃から自殺ばかりを考えるようになっていった。心が萎縮しきっていたと悲痛な告白をする富子さん。

 「中学校を卒業しても漢字も読めず、割り算、掛け算の計算もできなかった。劣等感のかたまりでした」と。

 朝鮮人であることを周りに知られることを恐れて職を転々としたあげく、20歳までになんと22回も仕事を変えたという悲惨な青春時代。当時の夢は、「日本国籍を取得して、立派で上品な日本人になることだった」と語る。

 やがて一大転機がやってきた。民族の自覚にめざめたのは、さまざまな人たちとの出会いと学びたいという渇望があったからだ。

 「祖父母と両親のルーツを知ったとき、涙が止まりませんでした。私の身体中にしみ込んでいた劣等感は、この国=日本の文化によって意図的にもたらされるように教育されていたのだということを、自覚するようになりました。そして、人間は自由で平等であることも知りました」

 信仰との邂逅、朝鮮学校出身の夫との出会い、そして生まれてきた4人の子どもたち。富子さんは多忙な暮らしの中でも、人間の尊厳、人権の尊さを学びながら、自分の名を本名に戻し、さらに 子どもたちにも本名を名乗らせるようにした。そして、日本市民らと力をあわせて「高麗博物館」を結成し、初代館長に就任。

 富子さんの「屈辱の人生よりも価値のある生き方を」という夢が見事に花開いた。正しい歴史観に立った朝鮮半島と日本の関係構築をと願う多彩な活動に東奔西走する日々に、いま、国境や民族を超えた支援の輪が広がっている。(語り 宋富子、三一書房、1900円+税、TEL 03・3812・3134)(公)

[朝鮮新報 2007.9.29]