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〈朝鮮史から民族を考える 1〉 理論的問題

ナショナリズムの積極的役割

連載にあたって

 現在、「民族」をめぐって多種多様な言説が飛び交っており、在日同胞の間でもさまざまな考え方が見られる。民族的な存在である在日朝鮮人にとって、「民族」に対する理解はそのまま自己認識につながる最重要の問題だと思う。この機会に、在日朝鮮人の立場から「民族」の問題を考えてみたい。このような課題は歴史学、哲学、国際政治学など、広い学問分野を見渡す力を必要としているが、筆者は専攻としている朝鮮史との関連のなかで「民族」を考えてみようと思っている。忌憚のないご意見、ご批判をお寄せくださることを願っている。

ネイション、エスニシティ

「民族とナショナリズム」 アーネスト・ゲルナー著 岩波書店刊、2520円

 一般的に、民族とは言語、血縁、慣習、地域などの共通性(客観的属性)と、それによって生じた相互の同一性の意識(主観的属性)によって結ばれた人々の集団であるといえよう。日本語の「民族」の語は、ネイションの概念と、エスニシティの概念の双方が十分区別されないまま混合的に使用されているため、一定の注意を要する。それは、民族という語彙が近代日本でネイションの和製漢字として翻訳され、ネイション・ステイトは、「民族からなる国家」(一民族一国家)と解釈され、後に中国、朝鮮でもそのように使われたことに関連する。

 筆者は、ネイションとは国民に当てはまるものと考え、民族はエトノスもしくはエスニシティに対応するものと見る。ネイション(国民)は、国境線に区切られた一定の領域、主権とともに近代国家=国民国家(ネイション・ステイト)を構成する3要素の一つであり、近代に入り形成された政治的共同体のことをいう。エスニシティは、言語、慣習などを同じくする文化的共同体という意味合いが強く、古くから歴史的に形成されてきたエスニック・グループが近代国民国家の一構成集団となる。

少数民族、先住民族

「民族は一つ」、訪北した盧武鉉大統領を熱烈に歓迎する平壌市民たち(10月2日)

 少数民族(マイノリティ)、先住民族(インディジェネラス・ピープル)の定義については国際機関で合意をみている。いわゆる「マイノリティ権利宣言」(1992年国連総会採択)、「先住民族条約」(ILP第169号条約、1989年採択)のことである。これらの国際的合意によれば、少数民族と先住民族の共通点として、被支配的な地位にあること、独自の文化的特徴を有する集団であること、その基準では自己規定が重要となること、を挙げている。違いについては、先住民族は、植民地支配などの不当な強制力によって合意もなく一方的に国家によって統合されたため、国際法上の民族として完全な権利、自決権を保持しているとされている。この定義にしたがえば、琉球・沖縄民族、アイヌ民族は先住民族であり、「民族自決権」を有しているといえよう。

ナショナリズムについて

 日本語では国家主義、国民主義、民族主義と訳されている。アーネスト・ゲルナーによれば、ナショナリズムとは、政治的な単位と民族的な単位が一致しなければならないと主張する「政治的原理」である、となる。これは、ナショナリズムやネイションは近代においてはじめて成立したものであるとする、近代主義的な理解といえよう。これに対してアンソニー・スミスは、ネイションに先行するエスニー(エスニック)共同体がもっている文化的な象徴作用には人間を根源的にとらえる力が含まれおり、このエスニックな文化象徴がもつ威力を解明しなければ、ナショナリズムの呪縛から解放されることはないとする。

 これは、ナショナリズムをネイションに先行するエスニックの側から分析しようとする、エスノ・ナショナリズムの立場だといえる。両者を批判する立場から、最近、「市民的ナショナリズム」という概念が強調されている。近代主義的なナショナリズム解釈のうち、近代化という大きな流れの中で確立してきた普遍的原理としての民主主義、自由、平等、そういうものでナショナリズムをつくるならばよいのではないか、ということである。しかし、市民的ナショナリズムも、実はヨーロッパ中心主義、マジョリティ文化がはらむ抑圧メカニズムの現れであって、むしろ差異への無関心を示しているという批判も存在する。

 ナショナリズムのはらむ問題性を絶えず意識していかなければならない。しかし、先進国側ではナショナリズムの克服という観点ばかりが強調されているのも問題である。植民地支配がいまだ継続しているときに、ナショナリズムが果たす積極的な役割を、それぞれの歴史的な文脈のもとで考えることが大切であろう。(康成銀、朝鮮大学校教授)

[朝鮮新報 2007.10.12]