top_rogo.gif (16396 bytes)

〈人物で見る朝鮮科学史−41〉 朝鮮王朝文化の幕開け(番外)

ヨーロッパから見た朝鮮半島

オルテリウス「世界の舞台」の日本地図

 1402年に製作された「混一彊里歴代国都之図」は、当時の最新の地理的情報を総合した東洋のみならず世界的にもっとも水準の高い地図であった。ただし、今日の地図からみればヨーロッパやアフリカの形状がかなり異なるという印象をもつが、それが当時の限界ともいえる。この地図は朝鮮から見た世界であるが、では、逆に当時のヨーロッパの地図では朝鮮をどのように描いていたのだろうか?

 近代的な地図が発達する以前の中世ヨーロッパでは、キリスト教の世界認識を反映したTO地図が普及していた。それは、丸い円のなかにT型で表した川と地中海を描き、その上にアジア、下の左半分にヨーロッパ、右半分にアフリカを描いたもので、実際の地理とはかけ離れたものであった。そこに転機がおこるのは、天動説を確立したことで知られるプトレマイオスの著書「地理学」に収められている地図の発見によってである。その地図は経緯線を用いており、これが大航海時代の地図にも影響を与えた。

シーボルトによる「日本辺海略図」の翻訳図

 そして、実際の地形を反映した地図が作成され始めるが、日本および朝鮮に関しては1595年にオルテリウスが編集した地図帖「世界の舞台」所収の地図がヨーロッパ最初のものといわれている。その日本地図は宣教師ルイス・テイセラによるもので、日本はそれなりの形に見えるが、朝鮮は半島ではなくナイフ型の島として描かれている。その後、1655年のマルティーニの中国図では朝鮮も半島として描かれるようになったが、それは棒状で実際の形状とはかなり異なる。それは18世紀後半以降の地図では徐々に改善されるが、決定打は日本の蘭学史上にその名を残すシーボルトによる日本地図である。

 1823年に来日したドイツ人医師シーボルトは日本の医学および博物学発展に大きく寄与するが、帰国時に幕府天文方・高橋景保から得た日本地図を持ち帰った(この後禁制の地図の持ち出しが、シーボルト事件の発端となったことはよく知られている)。その地図が「日本辺海略図」であるが、伊能忠敬の日本地図を基にしたかなり正確な地図であった。ただし、朝鮮に関してはまだ改善の余地があり、実際、近代以前の最も正確な金正浩の「大東輿地図」が完成するのは1861年のことである。

 ヨーロッパから見れば、朝鮮は大陸の一番先にあり海上からは日本に遮られる、もっとも遠い場所にあった。この地政学的条件により西洋近代科学知識は、中国や日本には直接伝わったのに対し朝鮮は間接的であった。これが朝鮮の近代化が遅れた理由の一つでもある。

 ところで、シーボルトは「日本辺海略図」を翻訳する際に、現在の論争の種となっている若干の書き換えを行った。それについては、いずれ詳しく述べることにしたい。(任正爀、朝鮮大学校理工学部教授)

[朝鮮新報 2007.10.12]