〈朝鮮史から民族を考える 2〉 理論的問題 |
「われわれ意識」の下部構造 愛国心、祖国批判
いま、日本では、愛国心が国家主義にかすめ取られ、愛国でなければ反日であるという極端な言説が幅を利かしている。愛国心はパトリオティズムの日本語訳とされているが、その語源はパトリア(出生)を意味することから、本来は郷土愛、祖国愛のことをいう。しかし、日本では愛国心やナショナリズムを歴史的に非常に狭く理解しがちである。そこには次のような理由があるのではないか。 @「単一民族国家」観が郷土愛、祖国愛、国家愛へと延長拡大した愛国心を生んでいる。A国家への不服従、抵抗の経験が少なく、なおかつ、抵抗に対する公的な評価がなされていないため、抵抗の歴史が継承されにくかった。B侵略戦争、植民地支配を犯した日本近現代史をどれだけ学んでいるか。 ブッシュ大統領の自宅農場前などで抗議運動を行い、国際的に注目を集めた「反戦の母」インディ・シーハンさんは、反戦運動が共和、民主両党に政治的な駆け引きに利用され、駐留イラク米軍の撤退にめどが立たない状況を批判して、「ケーシ(息子)の死は無駄だった。(中略)さようなら、米国よ。あなたは私の愛する国ではなかった」と述べた。
ユダヤ系フランス人の歴史学者マルク・ブロックは、ドイツ占領下のフランスで、対ナチス・レジスタンスに参加したため、ゲシュタポによって銃殺刑に処せられたが、彼は、「わたしは、これまでそのように生きてきたように、善いフランス人として死ぬだろう」という遺書を残した。 彼女、彼の祖国批判は、自国の現状に対する批判であって、決して祖国愛と矛盾するものではなかった。彼女、彼が愛した祖国は、理念として追求してきた共和主義国家としての祖国であった。その点、朝日新聞(1月25日付)に掲載された世論調査の結果は、特筆すべきものだ。愛国心がある人ほど、侵略や植民地支配に対して反省する必要があると考える傾向が強かった。このことは、「反省するリベラル=非愛国主義者」という構図が、国民の意識から乖離した虚偽の図式であることを暴いてくれる。 再びナショナリズムについて
一部の識者のあいだで、「日中韓」におけるナショナリズムの「敵対的な共犯関係」を問題視するところから、ナショナリズムを解体しなければならないとする議論がある。 しかし、この論理は、帝国主義と植民地、侵略と被侵略の決定的な差異を見ない、非歴史的な認識である。 解体すべきは、ナショナリズムそのものではなく、ナショナリズム相対化の名のもとに帝国主義、植民地主義などに関わる歴史的諸問題が不問に付され、免罪されてしまう論理構造ではないだろうか。 「想像の共同体」で著名なベネディクト・アンダーソンは、単に共同体が想像されたものだといっているわけではない。彼の主張の核心は、「想像されたものでしかない共同体が、なぜ我々をかくも深く情念的に揺さぶるのか」という問いにある。その後、彼は、この時期の自らの議論は、ナショナリズムをグローバルな文脈の中で捉えていなかったと反省し、19世紀末にフィリピン独立を目指したホセ・リサールらが、欧州、アジア、日本の革命家たちとつながりを持っていた事例を挙げながら、植民地独立のナショナリズムが、グローバルな文脈でつながっていたと指摘している。彼は、グローバル化に対応したこのようなナショナリズムを「遠隔地ナショナリズム」という概念で説明している。 ただ、グローバル化時代でもナショナリズムがなくならない理由を、「記憶や慣習」などに求める見解は、ある種の「文化還元主義」ではないかと思う。目を向けるべきは「われわれ意識」の下部構造そのものであろう。ある民族集団が他国(遠隔地)に居住していても、本国の政治的状況は、想像においてではなく、現実に居住国におけるその生を規定する条件なのである。 本国と居住国の二重の規定のもとにおかれている在日朝鮮人から発するナショナリズムの構想は、従来のナショナリズムの枠をも超えるものとなりえるだろうか。(康成銀、朝鮮大学校教授) [朝鮮新報 2007.10.15] |