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「ユーラシア出会いのコンサート in 薬師寺」に関わって

互いを尊敬しあう愉しさを 3年前に構想、多くの人々の協力に感謝

ひときわ温かい拍手が送られた世界遺産・薬師寺金堂での金剛山歌劇団の舞踊

 「ユーラシア出会いのコンサート in 薬師寺」(9月24日)の1カ月前、私は森崎和江著「草の上の舞踏−日本と朝鮮半島の間に生きて−」(藤原書店)を読んでいました。1927年の大邱に被植民者の子として生まれた森崎さんは、幼い頃から朝鮮の人と大地をまっすぐに愛し、母の乳房を吸うように自らの感情と感覚を育て成長します。しかしやがて朝鮮を植民地化した日本人であるという自覚は、聡明な森崎さんを「叫びださずにはいられない」ほど引き裂き苦しめます。

 私には森崎さんとちょうど逆の感覚がありました。ある日、偶然50年前の私自身の出生届のコピーが出てきました。そこには出生の住所や時間、体重、当時の青森市長の名などとともに、私をこの世に取り上げてくれた「吉川アサヲ」という助産婦さんの名が記されていました。一枚の紙に、誕生の朝の輝くような陽光や若かりし父母の面影、今日まで有形無形に授かってきた多くの愛情が思い起こされました。日本の政治には苦しめられましたが、私の周りにはたえずそれを補って余りある、日本の人の愛情深く優しい眼差しがありました。しかしそれは決して偶然ではなく、朝鮮人の魂と文化を護りながらも、一貫して日本では良識ある善き市民として生き、日常の暮らしの中で小さな国際交流を実践していた勤勉で穏やかな両親のお陰でした。

 コンサートを漠然と心の内で考え始めたのは3年前になります。東北生まれの朝鮮人である私が奈良に暮らして25年、朝な夕なに奈良の京の薬師寺を仰ぎ見ているのも不思議な縁です。

それぞれの民族楽器に映し出されている雄大なユーラシアの文化の流れ

 しかし奈良という地名は朝鮮語のナラ(国)が原音といわれるほど古代よりつながりが深い土地だというのに、この地の日本人の意識の中には朝鮮への尊敬というよりは蔑視観が強く感じられ、それと呼応するようにこの地のコリアンたちもまた朝鮮人である自らを愛するよりは、辱めながら生きているのではないかという懸念を覚えていました。

 人はたとえ不幸な歴史的経緯によるにせよ、生まれ育った地を憎み続けて生きることはそれ自体が不幸で苦しいことです。私の子どもたちにも、これからの全ての子どもたちにも、周囲の温かなまなざしの中で安心して生きてほしい、それが動機のすべてでした。

 世界遺産・薬師寺の荘厳な金堂を舞台に、美しい朝鮮の姿を紹介できたらどんなにすばらしいだろう、ユーラシアの雄大な流れの中でそれぞれの民族は独自に発展し、また影響しあってきたのです。日本の雅楽にも朝鮮や中国のものと神楽が融合しているのです。優劣などつけずに互いを尊敬しあう愉しさを共有する出会いの場。未来永劫隣あう運命の国と国、人と人ならば仲良くするに越したことはないのです。

 3年前、私たちの環境は「拉致事件」を巡って大変厳しい状況でした。ウリハッキョや総連組織は政治的な圧力を受け、金剛山歌劇団の公演さえ行政の後援がとりけされました。が、このような時期だからこそ私は、これまでの歴史がくりかえしてきた偏狭なナショナリズムに陥ることなく、「憎悪の連鎖」という愚かしさを乗り越えねばと、強く夢見たのです。

 その思いを当初よりしっかりと受け止めて後援してくださったのが平山郁夫画伯と薬師寺でした。コンサートを終えて、9人の実行委員と84人の出演者、友人・知人、雨の中会場を埋めてくださった観客のみなさま、かかわってくれた全てのスタッフへの感謝の念こそ、私の財産となりました。 

 厳しい政治状況の中でも「意思的な楽観」を標榜し、音楽を通じて国家間の和解を図ろうとしたサイードの考え方や、そのころ読んだ森安孝夫氏(阪大)、林志鉉氏(漢陽大)、鈴木道彦氏(獨協大)の論文にわが意を得ました。

 自分のことのように心配し励ましてくださった薩摩焼の14代沈壽官先生、私の郷里・青森から齢84歳を超える佐藤初女先生が会場にいらしてくださった恩恵こそ、これから多くの人の上に花開いてゆくだろうと確信しています。(朴才映・同「コンサート」実行委員長)

[朝鮮新報 2007.10.22]